「粋」という字は、東京では「いき」と読み、関西では「すい」という。
純粋なるもの、選りすぐりなるもの、洗練されたしゃれた色気、機微に通じたあか抜けた立ち居振る舞い・・・「粋」とはそんなものを指していうようだ。
清三の粋は「街の粋」「人の粋」「技の粋」「心の粋」「味の粋」に集約されるといっていい。
芝居町に根付いた芝居茶屋でスタートし、道頓堀ジャズの時代は西洋楽器店として名をはせ、今もうどんの名店として生き続ける「今井」。どれも、粋な街・道頓堀を抜きにしては語れない。清三はそんな粋な街のたたずまいに終生身を置き続けた。
芝居茶屋を支えた2代目~4代目、華麗な転換を果たした楽器店主の5代目、かあさんの味を商いに昇華させた清三。いずれも、その時代々々の暖簾を守った粋な人たち。そして、「今井」に足しげく通い、足跡をしるした粋人たち。
さらには、板場に生きる料理人の心意気と技、今井ならではの出汁を作り出す妙(たえ)な技と手打ちの技の粋に、おもてなしの心の粋。真骨頂は、器に食材に調度に見せたこだわりの粋。
清三は、わが人生を文字通り「粋」で飾ったのだった。
「今井」の6代目、今井清三の青春は、灰色、暗黒の時代とともにあったといえるかもしれない。
誕生したのは5.15事件で犬養首相が射殺された1932年(昭和7)。全国のいたるところで道頓堀行進曲が口ずさまれ、大大阪の時代を謳歌した昭和初期から一転して軍事色が強まり、戦争への道をひた走る時期と重なった。
父、寛三が興した西洋楽器店の、金管楽器販売禁止という悲惨な末期を知り、学童疎開をも経験。大阪大空襲の中を逃げまどい、焼け出されて高槻・寂定院に疎開せざるを得なかったのが、最も多感な中学時代だった。
あまりに暗い青春を駆け抜けながら、そこでは味わうことのなかった「粋」を、清三はいつの間にか身に着けてしまっていた。それは、暗い青春の反動ともいえるほどで、周囲を驚かせた。25歳で稼業を継ぎ、65歳で逝った清三は粋に生き、粋に囲まれて短い生をも同時に駆け抜けたのだった。
1950年(昭和25)11月8日、清三の姉、宏子が十菱福(よし)太郎と結婚。それによって生じた人手不足を補うように戦争未亡人2人を採用した「御蕎麦処今井」は、町が明るさを増していくのと並行して順調に伸びていった。清三に劣らず粋筋に強かった5代目、寛三の仲間ともいえた芸妓がひんぱんに顔を見せ、贔屓(ひいき)筋が付いてくる。マチ子の味に惚れたミヤコ蝶々も常連になった。客が客を招いて引きも切らなかった。
この年の1月、大大阪と道頓堀ジャズの時代の象徴だったカフェ「パウリスタ」の跡地に開店した「大阪名物くいだおれ」の店先に「くいだおれ人形」が登場した。後の「くいだおれ太郎」である。それは、戦後の道頓堀の新たな賑わいを象徴していた。
6月、朝鮮戦争が勃発。あの大空襲の傷が癒えたとはいいがたい大阪に、隣国の戦争が特需を運んできた。人は「糸へん景気」「金へん景気」と呼び、空前の活況に酔った。物資の配給や統制が次々と撤廃され、暮らしは少しずつ明るさを加えていった。復興ブームの中で一番遅れていた住宅建設も急速に進んだ。「今井」の好調な伸びも、寛三とマチ子の「味で売る」戦略に加えて、そんな時代の後押しに負うところが大きかったのも事実である。
明けて51年(昭和26)4月、春日丘高校を卒業した清三が同志社大に入学した。中学生だった弟の徳三を連れてよく遊んだ。うどん場にかかりっきりで、家庭を顧みる余裕もなかった両親をおもんばかった清三のやさしさが、こんなところに見え隠れした。「テニスにも、山登りにも、兄貴はいつも僕を連れていってくれた」と徳三はいう。
一方でマチ子は、清三だけを連れて「ここぞ」というレストラン、和食の店によく行った。店の後を継ぐ長男の舌の訓練が狙いだった。それは、徳三がやきもちを焼くほどに頻繁に続いた。「通う」と言ったほうが良いくらいだった。
このころ、時代も大きく動いた。
同じ4月、連合軍最高司令官、マッカーサー元帥が解任され、9月8日にはサンフランシスコ対日平和条約、日米安全保障条約が調印された。そして翌52年4月28日に両条約が発効され、占領は解除された。日本は独立し、新生主権国家として歩み始めたのだった。大阪の目抜き通りから星条旗が消え、登場したばかりのテレビジョンがそんな動きを克明に伝えた。
6月、麦が自由販売となり、米以外の食品はすべて自由販売となった。それは「今井」にとって、「味を決め手に売りまくる商い」の障害がすべてなくなったことをも意味した。戦後を引きずったバラックの店舗に、時には客の行列もできた。中座の賑わいにも乗った「今井のうどん」が、道頓堀発のブランドになりつつある時期でもあった。
当初2人だった従業員も4人に増え、間もなく5人になり、この間の5年で9人に増えた。いずれも女性ばかりだった。戦争未亡人が相変わらず多かった。「男は今井のノウハウを盗む」というマチ子の採用方針が生き続けたせいなのだが、それは結果として「今井のマチ子の味」を守り、今につなぐことにもなった。「男性をこの時期に採っていたら、調理人それぞれが自分の味にこだわり過ぎ、今井の味は消えていた」。多くの人がそういうのだ。
日本が独立の歩みを始めたころ、多くの人が口ずさんだのは美空ひばりの歌だった。笠置シヅ子の物まねで人気を博したのを皮切りに、ウエットな日本人の心をとらえて離さないヒット曲でスター街道を驀進(ばくしん)した。
この年は「リンゴ追分」が大ヒットした。ラジオ東京(現在のTBS)の開局記念ラジオドラマ「リンゴ園の少女」のテーマソングとして作られ、ひばりの歌舞伎座リサイタルのために贈られた曲だ。歌手が歌舞伎座でリサイタルを開くのは初めてで、たちまち評判となった。続いて発売された「お祭りマンボ」もヒット。ひばりの全盛時代の到来を予感させた。この年にデビューし、「赤いランプの終列車」で50万枚を売り上げた春日八郎が、かすんでしまうほどだった。
2年後の54年(昭和29)、街灯テレビの大スターとなったプロレスラー、力道山が茶の間の話題をさらった。民間テレビの先駆けとなった日本テレビが東京都内55か所に200台超の街頭テレビを設置。目玉番組としてプロレスを中継した。国民は熱狂して街頭テレビに群がり、力道山は悪(反則ばかりの外人)をやっつける時代の超ヒーローとなった。
この年、大阪では日本初の屋上ビアガーデンが大阪駅前、第一生命ビル屋上に誕生。NHKラジオ(大阪)が「お父さんはお人好し」の放送を開始した。各回とも高視聴率を維持し、大阪弁がいつも茶の間に流れた。番組は500回(昭和40年)まで続いた。
55年(昭和30)4月、同志社大を卒業した清三が「今井」に入社した。芝居茶屋の主(あるじ)だった4代目、三之助から寛三に引き継がれて西洋楽器店に変わり、その寛三が始めたうどん店に育った清三が、何の迷いもなく飛び込んだ世界だった。肩書は常務。とはいっても、女性の従業員しかいない「女の園」の男の子だったに過ぎない。経営の中心も、味の中心も、母であるマチ子が担っていた。寛三は日々の経営に口をはさむことはほとんどなかった。むしろ、別の夢を見ていた。1年半後、それが現実になるとは当の清三も想像していなかった。
入社してすぐは母の教えを守ってか、清三は従業員とうまく接し、その人たちに存在を認めてもらうのに精いっぱいだった。調理場にもひんぱんに出入りし、出汁のイロハから学ぶ姿勢を見せてマチ子を喜ばせた。
この年、戎橋のたもとに、グリコの2代目ネオン塔が完成した。1943年(昭和18)、鉄材供出で初代が撤去されてから7年ぶりの再建だった。高さは21・75メートル。初代より一回り小さくなったが、砲弾型の下に特設ステージがあるユニークなデザインでよみがえった。民主党と自由党が合同し、自民党が誕生した年でもあった。
そして、この年後半からは空前の好景気「神武景気」。輸出が伸び、鉄鋼、造船が不況を脱し、消費財生産のための設備投資が生まれた。神武以来という好景気に人は酔った。
「今井」はこの追い風にも乗った。そして、業績を大きく伸ばしていくことになる。
<筆者の独り言>
以前も「独り言」で触れましたが、このところインバウンド(外国人旅行者)という表現がマスコミにひんぱんに登場してきています。数年前まではまったく聞かなかった言葉ですよね。
で、日本を訪れたインバウンド数は、2015年で1974万人。ここ2年で倍増し過去最高という空前の数字のようです。二度目の東京オリンピックまでに2000万人を突破するという政府の目標も修正を迫られる数字ではあります。
けれど、この数字に喜び過ぎてはいませんか。
観光庁の統計(2014年)がまとめた世界の順位をみると、一位はフランスの8370万人、二位はアメリカの7476万人。そして三位スペイン6500万人、四位中国5562万人、五位イタリア4858万人と続きます。2014年の日本へのインバウンドは1341万人で、この年の世界のランクで22位。アジアだけに限ってみて7位にすぎません。なにせその数はフランスの六分の一といったところなのですから。むしろ、この開きの方がびっくり、としか言いようがありません。
いうなら2015年はインバウンド元年。これからが勝負どころです。「爆買いのふるさと」ともいうべき道頓堀も、質にこだわってインバウンドを増やす正念場にさしかかっているように感じます。
「今井」の6代目、今井清三が父、寛三の後を継ぐべく「御蕎麦処 今井」に入社した1955年(昭和30)以降、昭和30年代の大阪は神武景気を追い風に急膨張した。
何よりも目を見張らせたのは、自動車が町にあふれたことだった。狭隘(きょうあい)な道を広げる一方、舟運を支えた堀が次々と埋め立てられ、すべてが道路に変わった。それでも無秩序な激増ぶりには追いつけなかった。
それに拍車をかけたのが運転マナーの悪さだ。割り込みを平気でし、動けなくなるとクラクションを鳴らし続ける。信号が変わった瞬間、前の車を急(せ)き立てるクラクションがまた一斉に鳴る。町は騒音のるつぼとなった。
見かねた市長、中井光次の提唱で「町を静かにする運動」がスタートした。自動車の警笛騒音追放に重点を置いた運動はそれなりに効果を上げ、全国的な運動に発展していった。大阪発の市民運動が全国へ普及していく最初で最後のエポックだった。何とも皮肉な、笑えない現象としてそれは今に残る。
静かにする運動のスタートは58年(昭和33)。この年を真ん中にはさんだ前後3年の「今井」も、激動の時を過ごした。清三の入社に始まり、「今井」の法人化と寛三から清三への社長交代、新社屋建設がそれである。そして、清三の結婚と、弟、徳三の「(株)今井」への入社だった。
「おい、どうすんねん」
清三が大学を卒業する直前だったか、清三が入社して間もなくのころだったか。寛三が清三に向かってつぶやくように言うのだ。今井という店をどうしたいというのか。それが、寛三の質問の真意だった。
清三はこんなお店の雰囲気が嫌いではなかった。在学中から、暇があれば厨房に入ってテンプラを揚げたりの作業を手伝っていた。加えて実のところ、母、マチ子からは機会あるごとに「清ちゃん、どうするん」と聞かれてもいた。それは、うどんの店をさらに大きくしてほしい、との思いがあふれるマチ子の問いかけだった。
「(店を続けて)やるわ」
清三の返事は決まっていた。
寛三も、それをわかっていて聞いた節もある。
「ほな、店を株式会社(法人化)にせなあかんな」
寛三の返事も決まっていた。
56年(同31)12月、法人化が実行に移された。
屋号はそれまでと変わらず「御蕎麦処 今井」とし、その経営母体を「株式会社今井」として法人化したのだった。資本金は100万円。代表取締役社長に今井寛三、取締役副社長に今井マチ子、同専務に今井清三、監査役に寛三の長女、宏子の夫である十菱福太郎がそれぞれ就任した。株式は、寛三の判断でそれぞれに分けられた。
楽器店の焼け跡に建ったバラックで、内緒ながらのそば・うどん店を始めて10年。法人化は、寛三、マチ子の死に物狂いの努力で急成長を遂げた「今井」の、ひとつの到達点でもあった。
しかし、法人化からわずか1年後の株主総会で、寛三は社長の座を退き、代表権を清三に譲ったのである。以後、周りは寛三を会長と呼んだ。が、それからの寛三は清三のやり方に異論をはさむでなく、徐々にだが調理場からも離れていった。
そんなところをみれば、寛三のそれは「引退」そのものだった。いうなら、寛三が、清三への代替わりを見越して「今井」を法人化したようなもの、ともいえた。前年下期以来の「神武景気」が最高潮に達した時で、いわば盤石の交代期ではあった。それでも清三はただ驚き、その配慮にただただ頭を下げるのみだった。
清三のトップとしての初仕事は新社屋の建設だった。
「(このまま)商売を続けんのやったら、店、(新しく)作らなあかんなあ」
社長の座を譲ったばかりの寛三が、命令とも相談ともつかぬ感じのいい方で清三に言った。開店以来、店は急造のバラックのままだったから、清三に反論の余地はなかった。
「よし、やる」
清三は、年明け早々から新店舗の構想を練り始めた。そして初夏には着工、翌58年(同33)1月には完成させたのだった。
鉄筋コンクリート3階建て(その後4階を増築)。1階が店舗と調理場、3階が事務所、4階は麺打ち場と住み込み従業員宿舎と休憩室。南北に長い敷地の1、3階南側と2階の全スペースは自宅に使った。そして、1階の店舗奥を自宅応接間としてテレビを置き、2階は当初、清三と徳三の空間、後に清三夫妻とその子供たちのスペース。3階の南側を寛三夫妻の住まいとした。
それまでのバラックと比べたら立派な店舗ができあがったが、お客を迎えるスペースは1階の10席余。入口から7、8メートルあたりに壁を作り、右端に暖簾を下げて、帳場と調理場との仕切りとした。現在の本店と比べたら、それはささやかな店舗だった。
時代もめまぐるしく動いた。
56年10月末、通天閣(高さ103m)が再建され、開業した。コーヒー代20円、ラーメン30円の時代に、入場料は大人50円、子供30円だった。11月、地方自治法の改正で、人口50万人以上だった大阪、京都、横浜、神戸、名古屋の五都市が政令指定都市となった。
12月、日本が国連に加盟。戦後から10年余で世界に仲間入りし、船舶建造高で世界一位を達成した。戦後復興も本格化し、「もはや戦後ではない」が流行語となった。
57年12月、戦後の大阪の地下街第一号「ナンバ地下センター」(後の「なんなんタウン」)が開業。「なべ底景気」と呼ばれた不況を経験しながらも大阪の膨張は続き、58年5月、大阪府の人口が初めて500万人(推計500万5580人)を超えた。そして不況風もものかわ、59年(昭和34)には「岩戸景気」で盛り返した。
清三が経営者としてのありようを模索している間、一方で見合い話も進行していた。これは、マチ子主導で進んだようだった。
お相手は高野道子。府立北野高校を卒業した後、道頓堀近くの裁縫学校に通学。帰り道、友人と「今井」の暖簾をくぐり、一番安かったかけうどんを注文してはおしゃべりに花を咲かせたらしい。マチ子は安もん食いが嫌いだったようで、道子の来店のたびに眉をひそめたという話も残っている。
見合い話は道子の父の知人が持ち込んだ。見合い写真なしの話だった。道子を知っていたマチ子は「息子(清三)の好みやないから、断るやろ」と思っていて、見合い話を受けたのだったが、結果は逆だった。数日後、清三から「(この子と)結婚する」と言いだした。これを聞いたマチ子の方がびっくりしたという。
道子は道子で、「そん時まで、商売人と結婚するなんて考えてもみんかった」
58年10月12日に結婚。道子は、ハネムーンから帰った翌日から長靴姿で本店の調理場にたった。そして、夫を「専務」と呼んだ。いずれも、姑、マチ子の指示だった。清三はすでに社長だったから、専務と呼ばせた理由はわからない。だがそれは、仕事場だけでなく家の中でも続けられた。翌年11月28日に誕生した7代目の徹は、母が父を専務という呼び方以外で呼ぶのを知らずに大きくなった。
この時期、道頓堀もめまぐるしく変わった。
55年、映画上演中心の劇場に転向していた「朝日座」が「道頓堀東映」という名の映画館になった。千日前を含む一帯で、その後続々誕生した映画館のハシリだった。56年正月、四ツ橋にあった文楽座が道頓堀・弁天座跡に新築移転し、国立文楽劇場が誕生するまで文楽の拠点となった。58年4月、千日前の歌舞伎座が閉館し、跡地がデパートになった。10月にはこれに代わる新歌舞伎座が難波駅前に完成した。
59年、角座が漫才の小屋に姿を変えた。大劇場が演芸の小屋になった最初、といわれた。同時にそれは、道頓堀の脱芝居現象の兆候ともいえた。
映画館が増え、伝統の芝居小屋から芝居が消える。五座が消えていく兆しが、このあたりから見え始めたのだった。
<筆者の独り言>
3月2日に完全オープンしたばかりの「今井」の泉北高島屋店を、オープンから1週間後にのぞきました。
それは南海・泉ヶ丘駅前にある高島屋の1階最奥部に開店したもので、入口の左側に物販スペース、その奥に厨房。入口の左にカウンター席、その奥はイス席。イス席の壁面には、大正初期の道頓堀南側の家並みが並ぶイラストが。イラストの左端に楽器店当時の今井が描かれていて、ちょっぴりクラシックなムードです。
伺ったのは午後3時ごろ。厨房の中心にいた7代目の現社長、今井徹さんが手を休めてくれ、出店のいきさつなども聞かせていただきました。その最初の言葉が「おかげさまで開店以来予想以上のお客様にきていただいています」。10時半に開店して昼時ともなると、店の前は大変な行列だそうで、60組ものお客が順番待ちで並ばれるのだとか。開店早々には、物販スペースに置いた1800円台のお弁当50個が15分で完売したということです。新店オープンともなると、お客の出足が気になるものですが、まずは順調なスタートだったようです。
さて、本店でいただくことができる3月の季節そばを紹介しましょう。
春爛漫(らんまん)に先駆けた「菜の花そば(ごまだれ仕立て)」です。
小ぶりの丼の三分の二を菜の花が埋め、三分の一は刻みのシイタケ。その上に大きなエビが乗っかって、肝心のおそばはすっぽり隠れていました。「よくかき混ぜて召し上がって」のアドバイスに従い、特製のごまだれと菜の花、刻みシイタケを丹念にあえて食べると、菜の花独特の食感とほろ苦さが口いっぱいに広がり、そこまできている春を先取りした感じになりました。毎月違った季節そばの中で「ごまだれ仕立て」はこのおそばだけなのですが、ごまだれも中々おつなもの。まさに「季節を食べる」感覚なのですね。
今月の点心もまた彩り豊かでした。器に入った黒豆、ゆず人参、姫クワイ。ウドの白煮、白魚の桜煮、ワラビ、タケノコの木の芽和え、菱餅をかたどったふ、穴子入りのごま酢そば。それらの品々の間にユリ根を淡いピンクに染めた桜の花びらを散らして・・・・。そう、早春の演出なのでした。
デザートには、りんごのシャーベットをいただきました。
「季節そば」をこの欄で取り上げ始めた最初が昨年4月の「筍(たけのこ)そば」が最初で、この3月で一巡しました。いかがでしたか。
次回からは通常メニューの中で「今井ならでは」の一品を、紹介していくことにします。
1966年(昭和41)の春まだき。
「㈱今井」の社長になって10年の区切りの年を迎えた6代目、今井清三が、店舗一階奥の帳場脇で一人の若い男と向き合っていた。「従業員募集」の張り紙を見て暖簾をくぐった男の面接だった。
男は、同業の老舗「美々卯」で働いていることや、その店での実績などを説明しながら頭を下げた。なのに、普段は決断の早い清三が、なかなか言葉を返さないのだ。互いがにらむように、視線をぶつけ合っっていた。
「(あんさんは)今のお店におりなはれ」
沈黙を破って清三が言った。そして、「あんさんは(今のお店の)かけがえのない存在なんやから、辞めたらあかんのや」という趣旨の補足説明までした。
男は、いったんはしょげ、席を立った。が、帰り道、「かけがえのない」の清三の一言を思い出し、感動に胸がふるえた。そして、日を改めて今井を訪ねた。
「絶対ここで働かせて」と頭をさげて頼み込み、入社してきたのだった。
男は境野信吉。先代・寛三の妻であり、「今井の味」を創ったマチ子の方針で女子だけを採用し続けた「今井」の男子従業員第一号である。境野は独立すべく、わずか数年で退社したが、在職中、後続で入ってきた同僚の男子従業員に「(社長の)あの一言にしびれたんや」と言い続けたという。
清三の社長就任から3年余。後を追うように弟、徳三が大学卒業と同時に常務で入社し、客席(フロア)を担当し始めた。一方で父、寛三は肩書こそ会長だったが、一切を清三に譲った形だった。従業員は12人に増えたものの、当然ながら女性ばかり。その後も女性は増え続ける一方で、若い男といえば清三と徳三だけの時代が境野の入社まで続いた。
この間の「今井」の成長は目覚ましかった。そして、道頓堀の変容も著しかった。
徳三が入社した年の1960年(昭和35)12月の株主総会で資本金を3倍増の300万円にすることを決めた。成長の証しともいうべき増資だった。
62年10月には、手狭になった本店のスペース対策として、店の南部分を住居としていたのをやめた。堺市上野芝に新居を建設し、家族は転居した。これによって、1階調理場を南奥に引っ込めて客席を倍増。2階も座敷形式の客席とした。そして、3階は社長室と事務所、従業員食堂など。4階には麺打ち場と男子の休憩室兼仮眠施設が置かれた。男子従業員らはここを「寮」と呼んだ。当時、2階にまで客席を持つうどん店は珍しかった。
一方で上方歌舞伎は冬の時代を迎えていた。
61年(昭和36)は、歌舞伎が道頓堀で一度も上演されない年だった。6、7年前から歌舞伎役者間の対立が表面化、観客動員力も急速に低下していく中での出来事だった。歌舞伎の発祥・成長の地、道頓堀でのこの現象が上方歌舞伎の衰退を象徴していた。
救いは、これに危機感を感じた13代片岡仁左衛門が翌62年夏、「朝日座」を舞台に歌舞伎の自主公演を始めたことだった。松下幸之助ら財界の理解と支援を得たもので、「仁左衛門歌舞伎」といわれた。以後5年間で計5回行われ、2代沢村藤十郎の「関西で歌舞伎を育てる会」による自主公演へとつながっていく。この動きで上方歌舞伎は存続への命脈を保った。
この年の大阪は不況にも見舞われ、工業生産で常にトップの座にあった繊維が、電気機械器具にとってかわられた。
65年(昭和40)1月1日、道頓堀の始祖・安井道卜の12代目、安井朝雄氏が、国と大阪府・市を相手取って「道頓堀川の河川敷地を安井家の所有地と認めよ」と、大阪地裁に提訴した。道頓堀裁判といわれ、多くの耳目を集めたが、76年(昭和51)10月19日、原告敗訴の判決があり、一審で確定した。
12月、阪神高速道路の道頓堀-梅田間が開通し、高速道路の大阪都心縦貫が始まった。
道頓堀川改修工事がこの年に始まり、大阪市と牡蠣船の立ち退き交渉がスタートした。当時、一帯には8隻の牡蠣船が営業をしていたが、交渉で次々となくなり、67年2月、最後の牡蠣船「かき秀」が解体され、250年に及ぶ牡蠣船の歴史は終わった。
その翌年には57カ月に及ぶ「いざなぎ景気」が幕開け、3Ⅽ時代(カー、クーラー、カラーテレビ)が到来した。そしてこの年、日本の人口が1億人を突破したのだった。
境野の入社も風変わりだったが、男子従業員第2号、山本富一の入社もこれに劣らなかった。山本は10年後にいったん辞め、東大阪に自前の店を持った。しかし、還暦を機に店を閉めて今井に復帰。2015年(平成27)現在、新大阪駅・新幹線改札内にある「大阪のれんめぐり」コーナーに開店した今井店の店長だが、入社当時を思い出して今も笑う。
「わけがわからんうちに入社してしまっていた」
「おかみさん(社長夫人)に言われて・・・・」
境野が社長に惚れたのなら、山本は社長夫人に惚れたのだった。
境野が入社した1年後、境野と「美々卯」で同僚だった山本が、今井に境野を訪ねた。老舗をいったん辞め、京・丹後の旅館に勤めていた山本だったが、客のない日が続く旅館にも嫌気がさし、大阪の「和の店」を紹介してもらおうと5月の大型連休の3日、境野を訪ねたのだ。
「どこぞ(ええ店を)紹介してくれへんか」
山本が頭を下げた途端、「わかった」と答えた境野が「今、ごっつ忙しいねん。手伝ってくれや。寝るとこないなら、ここ(4階にある従業員寮)で寝たらいいやん」と手を休めずに言うのだ。山本は境野より年長だったが、老舗時代は境野が先輩だったこともあり、断り切れず「ほな、手伝うわ」。境野が即座に自分の替えの白衣を持ってきた。山本はこの時、調理場の仲間入りを果たしてしまっていた。
この時は大型連休に加えて、松竹新喜劇の藤山寛美が隣の中座で公演中。とてつもなく忙しかった。連休中、山本は今井の調理場でずっと過ごした。前の店でうどんやそばを打っていた経験者であることに加え、男手がほとんどないこともあって重宝されたのだ。調理場の一員でもあった社長夫人、道子から「あんた、ここで働いたらどや」と、言われ続けた。そして「気がついたら、おかみさんに首を縦に振っていた」という。
が、この時こそ、今井がさらなる飛躍のきっかけをつかんだ時でもあった。
山本の記憶では当時の従業員は、境野を除き女子ばかりで20人を超えていた。厨房だけでも7、8人はいた。
入社して3年後、それまで業者からの納入に頼っていたうどんを自家製に切り替えることを境野、山本二人が清三に直訴する形で提案した。それは、業容拡大の基本戦略だった。「いけるんか」
清三は言っただけ。
「そしたら、いこ」と即決したのだ。
うどんを打つには小麦粉がいる。山本は以前の勤め先での経験を生かして、日清製粉に直接電話した。今井の名を既に知っていた担当者から仕入先を紹介してもらった。
麺うち作業は、暖簾を下ろした午後9時過ぎから始める。当時、今井の店では一日に平均800人前ほどのうどんが出ていたから、この量を打ち、湯がいて作業を終えるのは朝になる。これを山本と境野が交代で続けた。二人は一日おきに徹夜をし、この作業をこなしたのだ。
しかし、こんな作業が長くは続くわけがない。一日おきの徹夜作業に音を上げた山本が「男(の従業員)を増やしてください」と、清三に頼み込んだ。そして、「男の方が無理もききまっせ」と口を開くたびに言い続けた。
清三が腹を固めた後は、山本に頼む番だった。
「ほんなら(男を)そろえてくれるか」
と清三がいう。山本はそれをも引き受けた。
1971年(昭和46)春、「美々卯」で後輩だった25歳の水野勝廣をアルバイトで入社(3か月後に正社員)させた。また、その年のうちに同じ店にいた自分の弟二人と、弟の幼馴染(なじみ)に声をかけて入社させ、男手は一挙に6人になった。
水野はその後、常務に。弟の一人は総料理長と、「今井」の新たな成長の原動力となっていく。
大阪万国博(45年)を挟むこの時期、「今井」はびっくりするくらいに流行った。藤山寛美の中座公演の時がそのピークだ。幕間といわず、はねた後といわず、店の前には長い行列ができた。うどんだけで1060人前も出た日があった。それ以外に、そばあり、丼物あり、おでんありだから、想像を絶する数字。従業員自身は昼食をとる暇も休憩もなかった。
当時、寛美は中座前の通りによく出てきていて、今井の白衣姿の従業員を見かけると、「今井はん、頑張ってんな」と声をかけた。そして、出前をしない今井に弟子を行かせ、持ってこさせたうどんを楽屋で食べた。
中座の楽屋口と今井の勝手口は、今井の東側を南北に細く貫いて法善寺横丁にいたる「浮世小路」に面して隣同士。どれもこれも、いわばお隣さんの今井に寛美が送るエールだったのだろう。
これも、今井が流行る理由の一つだった。
<筆者の独り言>
例年、年度末に近い時期になると統計数字の「速報値」が行政機関から発表されます。その中でも驚いたのは、総務省が発表した「2015年簡易国勢調査速報値」。「日本の総人口が調査開始(1920年=大正9)以来、初めて減少に転じた」のと「大阪府内の人口が68年ぶりに減少した」という事実でした。
発表された速報値によると、昨年10月1日現在の外国人を含む日本の総人口は1億2711万47人。2010年の前回調査から94万7305人(0・74%)減ったのです。39道府県で人口が減少し、厚生労働省の人口動態統計では、この年初めて出生数が死亡数を下回りました。また、全国1719市町村の8割を超す1416市町村で人口が減少し、828市町村では前回調査より5%以上の人口減となったようです。
一方、大阪府の人口は883万8908人。前回調査より2万6337人(0・3%)減りました。これは、1947年に実施された臨時国勢調査以来のことです。引き続き人口増となった東京都、神奈川に次ぐ「人口3位」の座は維持できそうですが、関西では滋賀県を除いて軒並み人口減となっており、今回調査で関西大都市圏での人口減少基調が明確になってきたといえます。
大阪府を市町村別にみると、人口が増えたのは大阪市(2万6428人増)、吹田市(1万8728人増)、茨木市(5348人増)など北摂地域のみ。減少したのは門真市(7474人減)、東大阪市(6928人減)、岸和田市(4372人減)など。府全体の所帯数は392万1923世帯。前回調査より8万9537世帯増えたのですが、1世帯当たりの人員が2.25人と、前回比で0.06人減ったことが人口減につながったようです。少子高齢化の波がこの大阪にも押し寄せてきているといえ、人口停滞現象に備えたもろもろの施策が急がれるところです。
役者、画家、音楽家、作家、芸能人、そして財界人、役人、プロスポーツ選手・・・・いろんな分野の著名人がひんぱんに訪れるお店は、ある時、そうした事実がブランドに化けることがままある。それが、〇〇さん行きつけのお店、という「看板」になったりもするのだ。
道頓堀に根を下ろした「今井」の場合、明治期の芝居茶屋、大正期の楽器店の時代から今日まで、そんな皆さんに可愛がられて大きくなった歴史を持っている。
今井の2代目から4代目までが手掛けた芝居茶屋「稲竹」の時代の贔屓(ひいき)筋は船場の豪商、鴻池家だった。鴻池関係者の観劇スタイルは「まず、芝居茶屋・稲竹に上がってから」。稲竹から営業を引き継いだ「稲照」の時代になっても、それは続いた。
楽器店時代は、国民栄誉賞を受賞した作曲家、服部良一を始め、道頓堀ジャズを支えた当時のミュージシャンやバイオリニストの辻久子が「今井楽器店」を贔屓にした。日本一の都市・大阪に西洋音楽の花を咲かせた音楽家で今井楽器店をのぞかないものはいない、とさえいわれたほどである。
そして、焼け跡から立ち上がっためん類店「御蕎麦処 今井」には、それまでとは違った「馴染み(なじみ)客」が次々生まれた。
最初は、今井の5代目、今井寛三が清元の世界で知り合った南地の芸者衆である。「今井の味」を創った寛三の妻、マチ子には漫才のミヤコ蝶々という応援者がいた。彼女は、ミナミ界隈での公演がある時には決まって顔をみせ、「マチ子のきつね」を頼んだ。
ブルースの女王、ブギの女王を育てて戦後の歌謡界をリードした服部良一は戦後も道頓堀を忘れず、めん類店に衣替えした「今井」に、笠置シズ子らを伴って顔を見せた。服部にとって調理場に陣取った寛三は相変わらず、道頓堀ジャズ全盛時代の「楽器店のひげのマスター」だった。
戦後の中座をいつも満席にした松竹新喜劇の藤山寛美とその娘、直美の親子も、今井の味になじんだ役者といえる。
寛美は、中座での公演では昼、夜の別なく弟子を今井に走らせ、うどんを楽屋に運ばせた。今井は出前をしないからである。そして、中座前で公演のPRをしていて、今井の店員がユニフォーム姿で通りかかるたびに「今井はん、頑張ってんな」と声をかけた。直美はひんぱんに店に顔を見せるだけでなく、舞台でも「あ~あ、今井のうどん食べたいわぁ」とアドリブでつぶやき、笑いを取ったりした。
そんな客に支えられて大きくなった「今井」が法人化され、戦後のバラックから3階建ての店舗に変わって新装開店したのが1958(昭和33)正月。ほどなく、和紙綴じのサイン帳が店舗の隅に置かれた。いつ、誰が、何のために置いたのか。清三の弟、徳三、7代目の現当主である徹を含め、それを正確に知る人はいない。だが、新装開店当時、お馴染みさん向けに出した案内状と対をなす奉加帳を、清三がそっと用意したのが真相だと思われる。
お馴染みさんの中で最初にやってきて奉加帳の存在に気付いたのは、道頓堀にほど近い一角に信濃橋洋画研究所を設立し、後進の指導を始めていた洋画家、鍋井克之だった。鍋井がふらっと今井をのぞいて目にしたのが和紙を綴じた冊子だった。
「これ、なんやの」
冊子を手に取った鍋井が、店員に聞いた。
それが馴染みの来店者にサインをしてもらうためのものと知った鍋井は、日を改めて店を訪れ、筆と墨を持ってくるよう店員に頼んだ。
「昭和33年1月18日 今井帖」
流れるような筆遣いで鍋井は描き、自らの作品に決まってする「克」のサインと押印までした。自分でそれに見入りながら
「やはり、これ(タイトル)がないとな」とつぶやくのだった。
そんな鍋井のサインは2冊目に移行する「昭和35年9月15日」と、冊数を重ねた「昭和42年6月16日」にもある。鍋井はバラック当時の「今井」の正面入口のスケッチを描いて贈ってもいた。三日にあげず今井のうどんを口にしていたようで、馴染みのさえたる存在だった。
タイトルがついて初めて、これに署名するのが著名人の慣わしになっていく。
清三の弟、徳三が60年(昭和35)に常務の肩書で入社。客席を担当してからは、自分が知る著名人が来店するたびに冊子を手に席にいき、サインを頼んだ。「サインを頼むのが私の仕事でしたんや」。徳三は当時を懐かしみながら言う。以来、署名は見る間に増えた。
「今井帖」はその時から、西隣の中座の爆発炎上で類焼した2002年(平成14)の約1年後に再開店した直後まで、店に置かれた。40年余で19冊に及んだサイン帳には、600人を超える著名人がわが名を記した。
開店当時の一冊目の今井帖を飾ったのは鍋井のほか、小説家の佐多稲子、壺井栄、「源氏物語」の研究で知られる評論家の村山リウ、講談師の旭堂南陵、俳優の辰巳龍太郎、漫才の南都雄二・ミヤコ蝶々、日本画家の生田花朝女、女優の宮城まり子、新珠三千代、漫画家の松下紀久雄、歌手の淡谷のり子、二代目中村鴈治郎ら。
二冊目には再び花朝女が登場。ほかに13代片岡仁左衛門、永六輔、プロ野球監督の別当薫、野村克也、俳優の三木のり平、望月優子、プロボクサーの海老原博幸らが名を連ねた。
冊数を重ねた今井のサイン帳だが、不思議なことに、平成4年(1992)5月4日に始まる「今井帖」には通しナンバーが「壱」とある。徳三の発想だったのだろうが、この「壱」は鉄筋コンクリート8階建ての新店舗に生まれ変わってオープンした最初の一冊だ。おそらく「ここから数え直して」の思いを込めた「壱」だったのではないか。もちろん、当の徳三も覚えていないのだが。
その冒頭部分に西野バレエ団創始者の西野晧三が「今井さん、日本一」と書いた。4日の開店からすぐの17日に来店したのだ。その前日に宮城まり子が見え「好きな今井さんで」と記した。26日にやってきた2代目露の五郎は「酒は酒 おそばはおそば今井です」と書き、6月には評論家の楠田枝里子、漫才のかしまし娘の正司敏江らが。盛夏のころには、7代目、今井徹が住み込みで修業した割烹料亭「喜川」の主人、上野修三、タレントの小鹿みき、俳優の山村聰、9月に入って桂べかこ、10月には女優の菅井きん、11月には新国劇の島田省吾と、引きも切らなかった。
そして最後は、平成15年(2003)7月15日という日付の通しナンバー「新一」である。解体工事中の中座で起きたガス爆発事故で「今井」は類焼。10か月ぶりに新装開店し、本格営業を始めた時期のものだ。これも、徳三が用意したものだ。同じ月の22日に中村勘九郎が来店し、サインしたのを手始めに、直木賞作家の難波利三は「やる気は光る」と添え書きした。盛夏の時期に服部良一の息子の服部克久、劇作家の北条誠、サッカーJリーグのチェアマン、川渕三郎、歌舞伎の市川染五郎らが顔を見せた。
秋口になってやってきた俳優の穂積隆信は「よき店によき人集う」と書いた。「大口を開けてうまいうどんに舌つづみ」と書いたのは漫才の京唄子。俳優の桃井かおり、いまやクイズ番組に欠かせないロザン宇治原、ボクサーの井岡弘樹らも姿を見せた。
が、今井帖はこのナンバーで終わった。
サインの最後の日付は平成16年1月吉日。それは徳三の退職が決まった時期とほぼ重なる。
全部で19冊に及ぶ今井帖だから、これまでに名を上げた人以外にも多彩な人たちが登場する。
二代目中村鴈次郎、落語の桂米朝、桂枝雀、小説家の水上勉、十三代目片岡仁左衛門、服部良一が育てた笠置シヅ子、俳優の若山富三郎、田宮二郎、漫才の横山やすし、プロ野球の福本豊らだ。
サインだけでなくイラスト、即興の言葉を連ねる人が多かった。
桂米朝は「法善寺 ぬけて帰ろう はるの雨」の自作を残し、桂枝雀は「雀百まで笑い忘れず」と記した。
昭和33年4月、売春防止法施行。同月、日本初の回転ずし「廻る元禄寿司」一号店が近鉄布施駅前にオープンし、6月には、世界初の即席めん「チキンラーメン」が阪急百貨店で試食販売された。うどん一玉6円の時代に、それは35円だった。12月に、一万円札が発行され、追いかけるように東京タワーが完成した。
戦後が戦後でなくなり、人は高度経済成長の波の中で「大きいことはいいことだ」に酔った。「今井」はそんな時代の波と多くのお馴染みさんに支えられ、さらに大きくなっていく。
「今井帖」はそのころをリアルに再現する、この店の宝でもある。
<筆者の独り言>
この連載を始めたせいで、道頓堀一帯をぶらぶらする回数が増えました。
宗右衛門町を超えて北に行くことはまれですが、心斎橋筋の大丸より南と戎橋筋、戎橋筋と法前寺横丁界隈をつなぐ東西の通りを、週一のペースで歩き回るのです。なんとなくそこに浸っていたい、というだけなのですが、おかげで道頓堀通りと交差する南北の通りと、並行して伸びる東西の通りのほとんどをめぐりました。
そんな「道ぶら」で、いくつかの発見をしました。
一つは「歴史をなぞる記念の碑が、一帯のそこかしこにある」こと。
道頓堀通りの南側、今井本店入口前にある「頬かむりの中に日本一の顔」(岸本水府)の句碑のほか、道頓堀五座の跡地を示す碑、そして戎橋、太座衛門橋、相合橋の北詰には句碑や一昔前の道頓堀を浮き彫りにした銅板が。
法善寺横丁もそうした碑の宝庫です。ここには流行歌の歌碑までがあります。また、日本橋の北詰には大阪城の石垣になれなかった「残念石」で作られた大きな「道頓堀由緒」が鎮座しているのです。一帯は記念碑巡りをするにふさわしいエリアといえるような気がします。
もう一つは、道頓堀川の南岸、戎橋の西にそびえるあのグリコの巨大広告看板が、いまやインバウンド(海外からの旅行客)が記念撮影する人気スポットになっていることです。日本人旅行者が記念の写真を撮るならわからなくもないのですが、アジア系といわず欧米からの旅行者もあのランナーを真似て万歳し、左足を軽く曲げたポーズでシャッターをせがむのです。それぞれの国で発行されているガイドブックに、グリコが紹介されていると考えざるを得ないような人気ぶりなのですね。
私を含め日本人が外国を旅行して、その土地の企業の広告看板の前で記念写真を撮るといったことがあるのかどうか。15か国ぐらいを訪問している私の場合は、そうした経験は皆無です。グリコという一企業の広告塔の場合、外国のガイドブックでビューポイントの一つに数えられているのかもしれませんね。もしそうなら、これも珍事といえるでしょう。真偽を確かめる気もありませんが、事実は小説よりも・・・・・。これまでも数えきれないくらいこの橋にきていながら気づかなかった面白い発見でした。
さて、今回からは「季節そば・点心」に代わり、道頓堀今井本店のメニューの中から「ぜひ」とお勧めしたい数々を紹介します。
まずは「かちん鴨うどん」。こんがり焼いたおもちが三つに、おねぎと肉厚の鴨がどっさり。合鴨のもも肉から出る肉汁のうま味が、昆布がベースの今井の出汁に溶け出して、うどんに絶妙に絡んできます。それは、この店の看板メニュー「きつねうどん」とは一味違ったおいしさのハーモニー、なんです。
焼きもちが入ったうどんは、「力うどん」と呼ばれるのが普通ですが、戦後、めん類店をおこした先々代、寛三さんはこれを「かちんうどん」と呼びました。しかも、こうした呼び方をした、日本で最初のお店なんだそうです。
そもそもおもちは「かつ飯(かついい)」といわれ、女房言葉に化けるときに「おかちん」となり、「かちん」になったそうです。寛三さんは、そんな言葉の由来を知っていたに違いありません。
「今井」の6代目、今井清三は、周りから「嫁はんの手のひらで遊んどる孫悟空」と評されることがしばしばあった。
よく飲み、よく遊ぶ。その超人的なエネルギーは孫悟空を超えていたかもしれない。が、それでいて、家族からも仕事からも脱線はしない。浮いた噂(うわさ)の一つもたたないのだ。遊び仲間は、清三の遊びっぷりをうらやましさ半分でそんな風に評した。
道頓堀川をはさんで北に南に、清三が仲間と通った小料理の店、バー、スナックは何軒もある。その一部をのぞいてみてわかるのは「あの人は、商売のことを片時も忘れることがなかった」という評判である。杯を重ねるごとに真面目な面もちが増し「わしは日本一のうどん屋や」を繰り返した、とかつての飲み仲間はいう。それは清三の目指す道であり、矜持(きょうじ)だった。同時に、母、マチ子が創った商いの道と、味を、清三が超えていく道でもあったのである。
社長のイスに座り、鉄筋コンクリート3階建て(後に4階を増築)の新社屋を完成させて間もなくの1958年(昭和33)ころ、清三は「調理場でてんぷらをよく揚げ、揚げたのをピラミッドのように積み上げていた」。調理の経験もないままこの世界に飛び込んだだけに「ねぎを刻み、出汁を引き、うどんを振ったり」の日々を長く続けた。見よう見まねでこの世界になじもうと必死だった当時の清三の姿勢を、従業員の多くが知っている。
それ以外の時は帳場に座っていた。
当時の「今井」の店は、現在の1階トイレの奥あたりで、客席と調理場に仕切られていた。トイレの反対側(西側)壁面に客席と調理場をつなぐ出入り口が切られ、そこに暖簾(のれん)が吊るされた。暖簾の奥に帳場があった。今のようなレジカウンターはなく、帳場が現金出し入れの窓口だった。
客が代金を払う時は、店員を呼んで料金をチェック。店員は客から預かった現金を帳場に運び、釣りが必要な場合は帳場で受け取って客に渡す。清三はそこに座り、現金の出し入れを続けた。フランスやイタリアのレストランで、今も当たり前にみられる料金支払いのシステムがとられていたのだ。
客の注文は店員が聞き、それを帳場に伝えるのが最初。帳場は通し伝票(幅2センチ、長さ10㌢)に注文を書き込み、厨房に渡す仕組みだった。
通し伝票は略語で書かれた。「きつねは<◎>」「タヌキは<〇の中に×>」「かちんうどんは<三角のしたにう>」「やなきうどんは<よう>」「よなきそばは<よそ>」といった具合だ。清三は、帳場でそれらをじっくり頭に叩き込んだ。
清三の味に対する感覚は天性のものだった。新しいメニューを作るとき、調理人たちはすべてを清三の舌に見てもらった。清三の「いけるなあ」が、客の評判につながる確かな味見だった。
清三はそれを、遊びの中でも磨いた。
遊びの中で、清三は生ものを口にすることをあまり好まなかった。「料理は調理してなんぼ」の料理哲学がその根底にあった。しかも、自ら足を向けた店で口にしたおいしいものは、「おい、こんなん、うちでもできへんか」と言い、それを取り込もうともした。事実、清三が持ち込んだものがアレンジされ、今井のメニューになったものもいくつかある。
この時期、今井家には悲喜こもごもが織り交ぜで訪れた。
清三の「社長見習い」の時期は同時に新婚真っ只中でもあった。1958年(昭和33)10月12日、道子と結ばれ、翌59年11月28日、待望の7代目、徹が誕生した。一方でその1週間前、4代目、今井三之助の妻、コマが89歳でひっそりと逝った。
60年春には、関西学院大を卒業した清三の弟、徳三が㈱今井に入社した。一流会社の初任給を知った父、寛三の「お前には(一流会社の)倍の給料を出す」の一言で決まった。
店舗の雰囲気も業態も大きく変わった。徳三が入社した年、店舗の正面右に川柳作家、岸本水府の作品「頬かむりの中に日本一の顔」の碑が置かれた。大阪の政財界人、芸能人らが水府を会長にして作った「川柳二七会」が、会の創設一周年を記念して基金を募り、完成させたもので、「ゆかりの中座のそばに」ということで今井の前に置かれることになったのだった。それは今も、相次ぐ拓本取りの墨にまみれてあり、店の風格にもなっている。
昭和40年(1965)代は、「女の園」だった店に男子従業員が増え、それまで仕入れに頼っていたうどんを自家製にしたあたりから売り上げも飛躍的に伸びた。しかし、清三はそれで満足をすることはなかった。1969年(昭和44)師走には、ミナミに完成した地下街「虹のまち」に支店第一号「虹のまち店」をオープンしたのだ。7代目、徹の時代に入って完成をみる多店舗展開のスタートである。
「日本一のうどん屋でありたい」は、言葉を変えれば「一流でありたい」との願いだ。清三は「一流」に向けた努力を、その後も怠ることはなかった。業界がまずそれを認めた。
25歳で入社した水野勝廣が30歳を超え、若くして本店の店長を任された1975年(昭和50)ごろだったか。いつものように午後2時ごろ出社した清三が、水野を帳場に呼んだ。
「日本調理師学校から蕎麦打ちの講師をしてくれへんか、というてきてんねん」
「・・・・・」
「行くか」
「行きます」
水野が二つ返事で応じて、二人三脚での講師稼業がスタートしたのだ。
清三は調理師免許を持っていないのに、蕎麦打ちの講義は見事だった。そば打ちの8つの工程を丁寧に話し、その話に合わせて水野が蕎麦を打ったり、出汁をひいての実演を生徒たちに披露した。しゃべり、実演を二個一で進めた。
朝の講義、午後からの講義とバラバラだったが、朝の3時、4時まで飲み続けるのが当たり前だった清三に、講義を休んだり遅刻したりということがまったくなかった。いいコンビの講師稼業は5年ほど続いた。
当時、他の講師陣には、うどんは「きつねうどんの元祖」とされる松葉家から、日本料理は花外楼から来ていた。「今井」の清三に講師の声がかかったこと自体、業界が「今井」のレベルの高さを認めたことに他ならなかった。
「今井はそば吉兆を目指す」
清三があるとき宣言した。「安もん屋には簡単になれる。けど、いったん安もん屋になったら、再び上等もん屋にはなかなかなれん」が口癖だった清三の一流宣言だった。
「マツタケそばを作るなら、そばがマツタケで隠れるくらい入れよ。それが今井や」
清三が言う「そば吉兆」を形にすれば、そういうことになる。だから、うどんの腰、出汁、器にとことんこだわった。器は、手ろくろ、手書きの別焼きを注文。うどんの鉢も手作りの清水焼だった。特攻の生き残りで飲み仲間、そして納入業者だった「ささや陶器店」の前店主、高井茂が「うどん屋にこんなええ器はいらんやろ」というと、本気で怒った。単価2、3万円の器を数十個単位で注文するのが常だった。
母のマチ子が残した「今井の味」を土台に、清三はその味にこだわりながら、うどん屋を超えたうどん屋を目指したのだった。
<筆者の独り言>
「家庭料理に和食を取り入れよう」
2016年(平成28)2月中旬、静岡市で開かれた「ふじのくに食の都の祭典」。その中の一つのテーマで展開された食育シンポジウム「次の世代に伝える和の食文化」の冒頭にあった静岡文化芸術大学長、熊倉功夫さんの講演(要旨)を毎日新聞紙上で拝見し、思わず「これだ」と手をたたいてしまいました。
茶道史や料理文化史が専門の歴史学者であり、国立民族学博物館名誉教授でもある熊倉さんは、昨年設立された一般社団法人和食文化国民会議(略称・和食会議)の会長でもあり、和食の素晴らしさをいたるところで説いていらっしゃいます。
少し長くなりますが、その講演の内容(要旨)を紹介します。
2013年暮れに「和食・日本人の伝統的な食文化」は「ユネスコ無形文化遺産」に登録され、世界では大変注目されているが、国内では若い世代に伝えにくくなっている。農水省中心の検討会で1万人規模の調査をした結果、大変な事態が見えてきた。(米の)ご飯を一か月に一度も食べない人が6.8%いて、20代男性に限ると18.4%にものぼった。
まったく関心のない人や若者に和食文化をどう伝えるか。昨年できた和食会議は「和食文化とは何か」を簡単にまとめたブックレットを作った。我々がいう和食文化とは、料理だけでなく、食べ方、調理の仕方、マナー、根底にある精神を大事にするということだ。茶碗を手にもってご飯をはしで口に運びながらお菜を一緒に食べるのは日本独特の食文化。「いただきます」「ごちそうさま」の言葉には自然の恵みをもらって命をつないでいることへの感謝を込めていること、食べ物を粗末にせずもったいないと思う気持ちも和食文化を支えていくことにつながる。
和食会議の2015年度の一番の事業は、和食の日の11月24日(いい日本食、のごろ合わせ)に、小中学校などの給食で天然だしのきいたおつゆを出し、味わってもらうことだった。味は記憶であり、本物の味を覚えて帰って家庭でも話をしてもらう。全国で約2000校が参加、50万人の児童生徒に和食を試してもらうことができた。
和食を伝えるうえでは、誰かのために作って喜びを感じることも大切なポイントという気がする。もっと幅広く、おかあさんたちがどうしたら家庭料理に和食を取り入れることができるかというワークショップが展開できたら素晴らしいと思っている。
この連載のテーマである「うどん」は、いうなら和食のさえたるもの。フランスに根を下ろし始めた「出汁の文化」と、熊倉さんの話を聞きながら、「明日の今井」にちょっぴり思いをはせました。
さてさて「今井」のメニュー紹介、今回は「よなきうどん」です。
浪花のよなきうどん、江戸のよなきそば――といったところでしょうか。古くは江戸時代からかもしれません。かつて、ミナミの歓楽街に酔客を相手にした屋台が出ていて、そのメーンのメニューがよなきうどんというわけです。明治、大正、昭和初期と続いた屋台ですが、今井が店開きした戦後はすっかり見なくなりました。いわば、ミナミの夜の懐かしい味を、戦前の西洋楽器店から衣替えしためん類店・今井の先々代、今井寛三が復刻してメニューにのせたというものなんです。
冷蔵庫のない時代のことですから、使われた具材は乾きものが中心で、おぼろ昆布、花がつおに素焼きのおかき。それに刻みの油揚げにねぎ。それらをそっくり取り込んでシンプルなあつあつを立ったままでいただく風情のうどんです。一度は古き時代の素朴なメニューを味わってみてください。
ちなみに、今井にはよなきそばもありますから、よろしければそちらもどうぞ。
1975年(昭和50)の年明けは、石油危機以来の不況が深刻だった。年の瀬からの暗さをそのまま引きずってやってきた。前年の企業倒産件数は17000件を超え、戦後最高といわれた。
それを象徴するように、「貧しさに負けた いえ 世間に負けた」で始まる演歌「昭和枯れすすき」(さくらと一郎)が売れに売れた。そして、人員整理、一時帰休、退職希望者募集、管理職の指名解雇といった不況乗り切り策が大手企業に広がり、前年秋の採用内定者を取り消す企業が続出した。高度経済成長がここにきて終焉を迎えたともいえた。
3月に新幹線岡山‐博多間が開通。4月には泥沼に陥っていたベトナム戦争がアメリカの実質敗北で終結し、5月はイギリスのエリザベス女王が来日して、明るい話題を振りまいた。しかし、不況風は低く垂れこめた雲のように巷(ちまた)を覆ったままだった。
不況風をどうにかして吹き飛ばしたい。どこも、だれもが考えた。
この年の初夏のある日、道頓堀の通りのセンターラインのほぼ10㍍間隔に街灯が並んだ。街灯は普通、通りの両側に並ぶのだが、ここでは道路の真ん中にそれを作ったのである。そして、街灯を中心に、噴水と信楽焼製のベンチが置かれた。通る人ごとに道路を分断するように置かれたそれらを奇異な目で見、ベンチに腰を下ろして噴水を眺めた。
「㈱今井」の6代目、今井清三が役員をしていた道頓堀商店会の手で、それは作られた。総事業費は2億5千万円。「ガーデンロード」と名付けられた。不況を吹き飛ばして人が集う町と、通りだ。文字通り「お庭のような通り」を目指したものだった。
道頓堀通り(市道)は当時、町の管理に任されていた。だから、商店会の一存で、こうした工事も可能だった。商店会は集客の手段として、誰もが驚く通りを作ろうと衆議一決。清三も役員として「ガーデンロード」作りの一翼を担った。
3年後の1978年(昭和53)10月、「ガーデンロード」は全線で完成した。しかし、それから5年後の83年(同58)には、噴水などは取り除かれてしまう。「道が狭くなり、通行の邪魔になる」という理由が蒸し返されたのだった。しかしその後も、街灯と、信楽焼製のベンチに替わる円形ベンチのみの施設となって残った。「ガーデンロード」の寿命は短かったが、清三ら道頓堀商店会役員の「ここだけにしかない町づくり」への情熱と執念は、センターラインに置かれた街灯に象徴され、今も生きているといっていい。
たったそれだけのことなのだが、公道で、道路の中央に街灯を並べたところは、全国を探しても、おそらくここにしかないのではないか。その意味からも「こだわり」の町づくりが生き続ける町なのだ。
清三は「関西で一番になりたい。けど、二番でええねん。一番になったらなったでしんどいねん」とよく言っていた。でも、本音は「一番になりたい」だった。清三が考えるわが店のありようは、母のマチ子が基礎を作った「味」にプラスして、「御蕎麦処 今井」を並のめん類店ではない店にもっていくことだった。清三の、それが「こだわり」であり、目標だった。
「今井が単なるうどん屋ではなく、(優秀な)調理人が育っているとすれば、季節そばにかかわる仕事と裏千家がらみの仕事があったせいだと感じる」
清三を支え続け、2016年(平成28)3月で一線を退いた元常務、水野勝廣が、今井での60年を振り返ってこんな感想を漏らした。
水野が言う「季節そばにかかわる仕事」と「裏千家がらみの仕事」は、清三の「こだわり」が生み、育てたものだった。清三はそれでマチ子を超えたのだった。
「これ、やれんか」
清三が片腕ともいうべき店長の水野に帳場で話しかけた。蕎麦の全国組織「蕎麦の会」会員だった清三が12カ月の月替わりの「蕎麦のレシピ」を示して言うのだ。
「・・・・・・・・」
水野が瞬間、ためらった。
「やりたいねん」
清三が畳みかけた。
「そしたらやりましょう」
今度は水野がすぐさま応じた。応じざるを得なかった、というのが正確だった。清三の気迫に押され、それ以外の返事はなかった。きつねうどんに代表される「うどんの今井」にあって、現在も本店メニューのトップを飾る「季節そば」はこんなやりとりでスタートした。
水野の仕事は、清三が示した12カ月にわたる月替わりのレシピの解読から始まった。料理本を買ってひそかに読んだ。
めん類店にも日本料理にある「四季」が大事、が持論だった清三のレシピは精緻を極めた。季節(四季)は、そば本体にもそれにつける点心にもきっちり盛る。清三は、水野らにその解説もした。
だが、季節を彩る素材には、これまで使ったこともないような材料が多くあった。7月の季節そば「白波そば」には、中心となる具が夏にふさわしい鱧(はも)とある。それまでの今井で、鱧を使ったメニューはない。しかも、骨切りが命の魚だ。さばき方もまるで分らない。水野は生の鱧を届けてくる魚屋に出向き、さばき方から教えてもらった。
見よう見まね、手探りで試作しては清三に味見をしてもらう。それを何度も繰り返した。半年余の試行錯誤が続いて、1978年(昭和53)の3月からメニューのラインナップに「季節そば・点心」が登場したのだった。
1月=寿そば▽2月=みぞれ餡(あん)そば▽3月=菜の花そば▽4月=筍(たけのこ)そば▽5月=うしおそば▽6月=柳そば▽7月=白波そば▽8月=しそ切りそば▽9月=若狭蒸しそば▽10月=栗蒸し餡そば▽11月=小田巻蒸しうどん▽12月=ゆず餡そば
4月の「筍(タケノコ)そば」は、この月がはしりの福岡県合馬(おうま)産のタケノコをまるごと直炊きし、直径8センチほどのものを輪切りにしてくりぬき、その中におそばを盛る。そばの上には早蕨と山椒の若芽がのっている。20センチほどの器には、中心におかれたタケノコを囲むようにおいしい汁をあふれさせる。これまでに見たことのない盛り付けだ。点心にはタケノコ寿司にタケノコや若鮎のテンプラ、湯葉豆腐にサワラの焼き物など、季節がふんだんに踊った。
5月のメニュー「うしおそば」は大きめの器にそばが泳ぎ、厚めに切ったタイが三切れ、炊きこんだシイタケにスライスしたウドがのる。いつものおそばと同じ出汁なのに、どことなく潮の香りがしてくる風情だ。点心にも、青葉若葉の五月がいっぱい。季節の花・ショウブの葉が器に敷かれ、アユ、茶巾すし、三角形をした小さなユリ根の頭頂部がアヤメの色に染まっていた。
どれもが、その季節その季節を彩る具材であふれた。ほかのめん類店では見かけることのないメニューが月替わりで並んだ。
一日20食限定でスタートしたが、西隣の中座がはねた後の客がよく来たし、「幕間に食べたい」といって予約するケースも多かった。というわけで「20食限定」では間に合わなくなり、徐々に数を増やし、多い時には1日70食も出た。
無類の美食家でもあった清三は、大阪や京都の日本料理を中心に、いろんなところを食べ歩き、その中で気に入った味を「今井でもできないか」と持ち帰った。その相談を、水野らにしょっちゅうした。食のあらゆる自己体験を自分の店で生かす相談だった。菜の花の胡麻和えを食べたら「これをそばにしたらいける」と言い、中華冷麺を食べ、これの日本そば版として「ごま酢そばをメニューに」というわけである。
「季節そば・点心」がメニューに登場した3月、従業員の服装が「白衣に、その下はワイシャツにネクタイ」になった。「服装はきっちり」と考える清三の指示である。それまでは白衣だけが統一され、その下に着るものは自由だった。そのあたりにも清三のこだわりがのぞく。
1971年(昭和46)7月24日、今井の7代目、徹の妹、美香が誕生した。徹誕生からひと回りも違う女の子の誕生に今井家は喜びに包まれた。が、その5年後の76年(昭和51)12月、先代の寛三が胆のうがんで逝った。80歳だった。「季節そば」は見ずじまいだった。
そして、79年5月、「今井の出汁」の生みの親、マチ子が内臓疾患のため死去。75歳。わが息子の頑張りを「季節そば」に見ながら、寛三を追うように逝った。7代目、徹がシンガポール・UWⅭ校に入学。海外生活を始めた年である。
今井家は、大きく変わっていく時期にさしかかったのだった。
<筆者の独り言>
大坂観光局が4月28日に発表したところによると、今年1~3月に大坂府を訪れた外国人観光客(インバウンド)は203万1000人。前年同期比で55.9%増え、全国平均の伸び(39.3%増)を大きく上回りました。
中国や韓国などからの客が堅調に伸びたのに加え、タイからの客が前年同期の2倍以上になる12万2000人に達しました。欧州からの客も伸び、イギリスが1万4000人(前年同期比27.2%増)、フランスが1万8000人(同38.4%増)、ドイツが1万3000人(同44.4%増)でした。外国人の目が、日本の、それも関西に向いたとすればうれしいですね。
さて、道頓堀今井のメニューですが、今回はデザートメニューの一つであり、お客の注文が最も多い「わらびもち」を紹介しましょう。
関西で出回っているわらびもちは普通、わらびで作るおもちそのものに甘さを加え、それにきなこをまぶすのですが、今井のそれは甘さを控えめに仕上げたおもちをきなこでくるみ、その上に蜜をかけるのです。現当主(7代目)の今井徹さんにいわせると「奈良・東大寺で売っているスタイル」のわらびもちなんだそうです。
先々代、寛三さんの奥さん、マチ子さんが中心になって戦後まもなくのころに始めためん類店「御蕎麦処今井」に、なんということもなく出入りしていた人の中に大和高田が在所という男がいました。定職もなく、道頓堀界隈をフラフラする日々を送っていたようです。マチ子さんは彼を更生さそうとある日、勝手口に呼んで説教まがいのやり取りを始めました。
「あんさん、なんぞ作れるもんはないんかいな」「わらびもちなら・・・・」「よっしゃ、ほなら作って持ってきなはれ。あんさんが作ったんは全部買うたげる」
声掛けに一念発起したのか、彼はその日以来、欠かさず120人前のわらびもちを大和高田から運んできました。男は今井の中で「ペロさん」の愛称で呼ばれ始めました。わらびもちがペロンペロンしているからです。ペロさんは亡くなるまで納入を続けたのでした。
平成に入ってすぐのころ、ペロさんがいつものようにわらびもちを手に「今井」を訪ねてきました。マチ子さんに会い「わしなあ、がんで余命いくばくもないねん。(わらびもちの)作り方を教えとくわ」というのです。製法を伝授されたのは、当時、調理場の中心にいて2016年春に退職した水野勝廣さんでした。
「今井」が創業してすぐにメニューに加わった「めん類店のわらびもち」。今も生き続けるデザートの誕生秘話を思い起こしながら、ペロさんの味、わらびもちをどうぞ。
「かっこよく、粋な遊び人できれい好き。そして、几帳面な人だった。尾崎紀世彦ばりにもみあげを伸ばし、背広をスカッと着こなして、うどん屋の親父というイメージではまったくなかった」
親しい人からも、初対面の人からも、およそ~らしからぬ人と言われ続けた「今井」の6代目、今井清三が固執したのは「味はもちろん、季節にこだわり、和の姿と形にこだわって、それらを自らのめん類店に取り込む」ことだった。
1938年(昭和53)春、本店のメニューにのせた「季節そば・点心」の経験をベースにした取り組みである。これが一つ。
そしてもう一つ。「これや」と決めたのが、「吉兆」の創業者、湯木貞一が極めた「茶懐石の世界」へ向かうことだった。
「お姉ちゃん、何とかならんか。頼むわ」
「お姉さん、何とかお願いします」
清三と妻、道子が茶道の世界へのつながりを求めて頭を下げた相手は、裏千家の出入り方でもある茶商「十菱」の長男、十菱福(よし)太郎に嫁いだ姉、宏子だった。二人は宏子に裏千家の師範や高弟たちの組織「淡交会」への紹介を頼んだのだった。宏子に会えば、決まって「頼むわ」を繰り返した。
その機会は意外と早くやってきた。
十菱夫妻の長男、昌久が1981年(昭和56)1月19日に万博記念公園迎賓館で挙式し、裏千家出入り方の慣例行事として、長男の結婚を裏千家関係者に披露する茶会をその年の3月に開くことになった。
茶会には「茶席」と「点心席」とがある。その「点心席」を今井でやりたい。清三の思いが宏子に伝えられ、宏子は「弟(の店)を使うたって」と福太郎につないだ。福太郎は京の老舗「辻留」に頼むつもりだったのをやめ、一抹の不安を抱きつつも「今井仕切り」を決断したのだ。
受注して本番までは2カ月余。調理場に立っていた道子が茶席での料理の出し方など茶席のイロハを率先して学び始めた。清三も、「季節そば・点心」を頭に描きながらの試食を繰り返し、味の調整も進めた。必死の作業だった。
茶会の会場は生玉神社内にある裏千家大阪支部の道場「玉秀庵」。「茶席」の後に続く「点心席」には招かれた淡交会の面々、出入り方を構成する業者のトップが居並んだ。
点心が席に運ばれた。しばらくして、
「おいしい」
「いけるね」
たくさん見えていた淡交会幹部らの声が、あちこちの席から漏れた。チャレンジは大成功だった。今や、そのパイプは太くゆるぎないものになっている。
味と季節感と和の心と、そして器。「親父は魯山人かも」と7代目、今井徹がいう清三の食を構成するあらゆるものへのこだわりは、多くの人を引き付けた。客が客を呼ぶ。時に行列さえできた。店の狭さが目立つようになっていった。そのバックボーンに、茶道の世界に踏み入って茶会の点心席を受注し続ける「和」への傾斜と、月替わりの「季節そば・点心」をメニューに載せた「和」へのこだわりがあったのは間違いない。
清三が社長になってすぐ、戦後のバラックから4階建ての新店舗兼住宅を建設。それも手狭になり、3年9か月後、堺市に住宅を新築して転居し、空いたスペースを店舗にして補ってきた、しかし、もう限界だった。
1985年(昭和60)6月、二つ目の支店「今井東京店」を東京・南麻布に開店した。40席程度のしゃれた店で、店長は山本直人。今も総料理長として全店ににらみを利かせている人だ。きつねうどんの料金は700円だった。テレビ朝日が近くにあったせいか、芸能人が多く来店、山城新伍、千昌夫などは常連で、よく流行った。
翌86年(同61)9月には大阪城の一角にあるホテルニューオオタニ大阪の地下一階に「ホテルニューオオタニ大阪店」を開店した。本店調理場に立っていた清三の妻、道子が開店と同時に新店に移り、陣頭指揮した。87年(同62)8月には、清三を継ぐ徹が割烹料亭「喜川」での修行を終えて常務で入社。秋には、食材納入業者など取引のある約60社で「今井会」も作られた。
<注*本来喜川の「喜」は、漢数字の七を三つ重ねたもの。WEBでは使用文字に制限があるためこの原稿では「喜」を使用します>
順風満帆の経営が続いた。飛躍が見込めると踏んだ清三は、二度目の新社屋建設の夢を膨らませた。しかし、90年(平成2)2月、株価が暴落。バブルの崩壊が始まった。新築マンションの価格急騰がぴたっと止まった。景気が一気に沈んだ。そんな中、東京店の業績が好転せず、8月には閉店のやむなきにいたった。その年、聖心女子大に入学した徹の妹、美香が店でアルバイトを始めて4カ月しかすぎていない時期だった。
でも、清三は強気だった。いったん決めたことへのこだわりも人一倍である。翌91年(同3)3月には仮店舗「味わい橋店」で営業を継続しながら、本社・本店ビルの建て替え工事に着手したのだった。
仮店舗を開くと同時に新メニュー「うどん寄せ鍋」を看板商品のラインナップに加えた。当時、これが今井の売れ筋になるとはだれも思わなかった。清三は「後退」という言葉を知らないかのように、前へ前へと突っ走った。
建て替え工事の真っ最中だった12月には㈱今井の資本金を1000万円に増やした。
翌年5月に完成したのが、めん類店としては他に例を見ない鉄筋コンクリート8階建てのビルだった。
1階から4階までが客席、5階が厨房、麺打ち場、6階が食器庫、7階が従業員食堂、8階が社長室、応接室。客席が4階にまで伸びているめん類店は、日本でもここだけではないか。その記録は今でも破られていないはずである。
そしてその直後、「うどん寄せ鍋」のテイクアウト商品化を決断。徹の売り込みで、松坂屋食品売り場にそれを並べるのに成功した。
清三の徹底したこだわりが、それらのすべてに生きているのだった。
したいと思ったことをし続けて、母、マチ子が築いたといっていい「御蕎麦処今井」を大きくし、一流に育て上げた清三の快進撃はここまでだった。
本社・本店ビルを完成させた翌年秋、清三は前立腺の異常を訴え始めた。尿の出がすこぶる悪い。精密検査の結果、がんと診断された。還暦を通り抜けたばかりの若さ。しかし、清三は平然として手術を含むがん治療を拒否。妻、道子の勧めをも頑として拒み、店に出続けた。
翌94年(平成6)4月、大学を卒業した美香を入社させ、ホール担当につけた。95年(同7)6月、大丸心斎橋店、高島屋大阪支店でうどんなどの販売を開始。その年暮れの株主総会で社長の座を7代目、徹に譲った。
この時期の清三の歩みは寸秒を惜しみ、まるで「人生の仕上げ」を急ぐかのようだった。
<筆者の独り言>
今回紹介する「道頓堀今井のメニュー」は、マチ子オリジナルの「親子丼」です。
ここ、今井の親子丼は、見れば一目瞭然。丼を覆ったとじタマゴの中央に生の黄身が鎮座しており、これを周囲に散らしながらいただくのです。独特の「今井の出汁」がからんだとじタマゴに別の黄身が絡み合って、そのおいしいこと。濃厚な味に思わずうなります。
めん類店といってもめん類を提供するだけではありません。丼物も重要なメニューです。戦後まもなく、先々代の寛三さんの時代に「御蕎麦処今井」を始めてすぐのころ、妻、マチ子さんは麺のパートナーの丼物をメニューに加えたいと思い始めます。
あるとき、今井家の夕食の食卓に、決まって親子丼が出るようになりました。何故か、それが連夜続くのです。しかし、味は、日ごとに微妙に違うのでした。後で分かったのですが、それは、マチ子さんの壮大な実験でした。タマゴを何個使うか、黄身と白身のバランスをどうとるか。それを毎夜変えながら、実験結果を食卓に並べていたのでした。
その結論は「タマゴを2個使い、とじるのは黄身1個分と白身2個分。残りの黄身一個はとじタマゴの上にそのままのせる」でした。それが一番おいしい親子丼、の結論がそっくり今井のメニューに登場し、今も当時のままの親子丼が生き続けているのです。
「今井の出汁」を作ったマチ子さんの工夫が生きたオリジナルメニューを、一度ご賞味ください。