「(帰った時には)ぜひ(こちらで)勉強させてください。よろしく頼みます」
「御蕎麦処今井」の東脇から南へ抜ける浮世小路を進み、法善寺横丁とぶつかる東北角にある割烹料亭「喜川(きがわ)」。2階カウンター席で、今井の6代目、今井清三の隣に神妙な顔つきで座った7代目、徹が、店のおやっさんに深々と頭を下げた。
シンガポールの外国人を対象とした中高一貫校「ユナイテッド・ワールド・カレッジ」を卒業後、米・カリフォルニア州立大フレズノ校で学んでいた徹が、冬休みを利用して帰国していた1983年(昭和58)の松の内のことである。
筆まめな父、清三は徹がアメリカに滞在中、週に一度のわりで手紙を出していた。「今井」であったその週の出来事や身辺雑記を克明につづった日記のようなものだった。82年末の帰国の前に届いた手紙には「(徹の)修業先、みつけたで」とあったから、暮れか正月には連れていかれることになる、との予想はしていた。が、それが「今井」から1分足らずの名のある店「喜川」とはまったく知らなかった。それまでは、連れて行ってもらったことなどまったくなかったからだ。
「喜川*」の主は、関西では名を知られた料理人、上野修三である。自らの店を「浪花割烹」と称し、浪花にこだわった味と素材で通をうならせる店だ。清三がここの大ファンで通いつめ、ある時、「(息子を)面倒見てくれまっか」と頼み込んで内諾を得、それが「松の内の面接」につながったと、徹は思うのだった。
*「喜川」の「喜」は、漢数字の「七」を三つ重ねた略字で書くのが正解ですがここでは略字を使用させていただきます。
正月気分のさなかだったせいでか、客はそれほど多くはなかった。馴染み客の一人、清三は二階カウンター内にいた上野修三に挨拶し、息子を紹介した後、カウンターのやや奥まったあたりに座った。
親子の間を熱燗が行ったり来たりし、その間、上野の作品ともいうべきコース料理が目の前に次々と並ぶ。、先付、煮物椀、造り、八寸、焼き物、炊き合わせ・・・・・。どれも「うわー」「すごい」と驚くおいしさだった。
徹は驚きつつ、師匠となるべき上野に頭を下げたのだったが、当の上野は
「それはええけど、まずは(留学先の大学を)ちゃんと卒業しいや」とクールだった。
自らは調理の修業もしないまま「今井」に入り、入社からわずか2年で社長になった清三だったが、自分を継ぐ徹には「その道の先達につかせ、学ばせたい」との思いがずっとあった。それも「(自分の店より)格上の店で日本料理を学ばせたいと、ずっと思っていたようだ」と、徹は振り返る。加えて清三は「うどん、そばにも季節感がないとあかん」が持論だったし、社長として、持論を実行に移しつつ「季節そば・点心」をメニューにのせ、裏千家・淡交会とのつながりを深めてもいた。そんな季節感を次の時代の今井にもつなぎたい。徹への期待は、清三の持論の延長線上にあったのだ。
徹は海外留学を終えて板前修業に入ることを、ごく自然に受け入れていた。清三に「住み込みでの修業を」と、いついわれたのか。徹の記憶は定かでないが、中学生のころから店の厨房に頻繁に出入りし、そのころから「店を継ぐ」が当たり前と思ってきた。徹にとって、上野修三に師事するのは自然の成り行きでもあった。
「親父の後を継ぐのを、いやだと思ったことは一度もないなあ」
それが徹の偽りのない気持ちだった。
1985年(昭和60)7月、フレズノ校を卒業した徹は、月のうちの28日に帰国。その足で「喜川」に挨拶に出向いた。
「そない簡単に一人前にはなられへん。半年は追い回しや。覚悟してきいや。8月1日からおいで」
上野修三が近所の喫茶店に連れて行ってくれて言った。
指定された日、徹は当座の着替えなどだけをカバンに詰め、黒門市場内にある住み込み従業員用のアパートに入った。2Kのアパートの6番目の住人である。「煮方」を務める先輩が一つの部屋を一人で使い、徹と4人がもう一つの部屋を共同で使った。
25歳になっていた徹には、全員が「同年か年下の先輩」だった。
板場では新入りから順番に、追い回し→焼き場→中板→煮方という序列があり、その上に「花板」がいる。花板は、全体を見る経営者のこと。つまり、おやっさんだ。煮方は花板に次ぐ存在だから、一部屋を独占するのは当たり前という世界でもあった。
勤務は朝の9時から翌日の午前1時くらいまで。毎週月曜日が休み。休みの夜は上野芝の自宅に泊まり、火曜日の朝に戻る。住み込みの月給は片手に及ばなかった。
厳しい毎日が続いた。時計が翌日に回って仕事が終わり、歩いて5分足らずの住み込みアパートに戻る。道すがら、黒門市場にある仕入れ先に「明日の注文」の紙を投げ入れるのも仕事だ。修業中のみんなは勉強熱心で、アパートに帰ると、入浴もそこそこに、おやっさんがその日に作った料理の献立をそれぞれがノートに書き写すのだ。そうこうするうちに午前3時を回ってしまう。 1週間を我慢で過ごし、改めて法善寺の門をくぐる。途端に漂ってくるかぐわしい香りにさえ地獄を感じた。
住み込んで2週間後、中板の子がいなくなった。辛くて逃げたようだった。2階で腕組みして立っていたおやっさんが徹に「お前、帽子をかぶって立っているだけでいいからカウンターに入れ(中板の恰好をしろ、という意味)」と言っただけだった。おやっさんはこんな子を追いかけない主義だった。住み込んだ2年の間に、4人が逃げたりやめたりした。
失敗は数えればきりがない。入店して間もなく法善寺横丁祭りがあり、「喜川」も店の前で味噌おでんの屋台を出した。店番をしているとき、おやっさんに勧められて日本酒を飲み、べろんべろんになった。しばらくして店に戻ったが、ふらふら。客のテーブルの皿を下げていて足元がふらつき、手にしたすべての皿を割ってしまったことも。おやっさんの怒鳴り声がなかったのだけが救いだった。
理不尽なことも山ほどあった。新米へのいじめもなくはなかった。しかし、年下の先輩と自分との間には、それらに腹を立てても仕方がないほどの力量の差があったし、それは一生かかっても追い越せない差だった。だから、一人で耐えるしかなかった。
追い回し→焼き場→中板→煮方。この序列を一つ上がるのに、最低で2年を要した。
「追い回し」は文字通り新米の仕事。買い物に行ったりの雑用係、下っ端中の下っ端だ。店が始まると、客の注文を聞く役回りもこなす。2階カウンター席の追い回しを担当させられた徹は、18歳の先輩に指導を受けた。弁当の盛り付けは追い回しの担当だし、まかない食のメニュー(一汁三菜)を決めて煮方に調理を頼むのも仕事。薄揚げとえのきの汁を三日続けたら、煮方に笑われた。最後にはどうしていいかわからくなり、今井のまかないのおばちゃんに教えを乞うたこともあった。
「焼き場」は、魚を焼く、ご飯を炊くに加え、まかないの段取りもつける。「中板」は、魚のおろし、切り、野菜をむくなど下処理をし、処理後のネタを煮方に回す。盛り付けも担当する。
「煮方」は調理人の上がりの持ち場。すいもん、炊きもん、揚げもんのすべてのネタを中板から受け取り、すべてをこなす。田楽の味噌の仕込みから魚のタレの管理までをてがけた。
これらのすべてをマスターするのには最低10年はかかる。中卒、高卒の先輩の技は到底超えられるものではなかった。まして、徹に与えられた修業の年限は2年。「最低10年」の五分の一である。先輩を超え、厳しい序列の階段を昇っていくのはとても不可能だった。
しかし、徹は「大切な2年だった。たとえ短くとも、修業は絶対すべきだ」と、今も思う。自分を継ぐ長男、康平にも「同じように修業させたい」と言い切るのだ。「今井の調理場に立った時、調理場の人たちの自分を見る目が違う」「調理もできんのに料理屋の主にはなれん」と思うからだった。
<筆者の独り言>
「成長、進歩に近道はない」
今井の7代目で現当主、今井徹さんの修業時代を取材していて思ったのが、この言葉でした。新聞記者の道を選んだ自分の駆け出し時代をこの言葉で思い起こしながら「一緒やなあ」と思わずうなずいてしまったのです。
記者の世界には追い回し、焼き場、中板、煮方といった序列はありません。しかし、記者になりたての存在に対する先輩の指導は、そんな序列を超えてとてつもなく厳しいものでした。どこの新聞社もおおむね同じですが、新人記者はまず東京、大阪、名古屋、福岡にある本社機構から外れ、府県庁所在地に置かれた支局に配属され、警察本部を中心とした事件取材を担当します。大阪本社管内の場合、京都、神戸など近畿管内をのぞいた支局の要員は4―6人ですから、事件担当は一人。一人でどんな事件でもこなさなければならないうえ、町の中で起きる美談、トラブルなども記事にしなければなりません。
一か月の研修だけで、社を代表してそれぞれの持ち場を担当するわけですからたまりません。他社の先輩記者に伍してわずか20行足らずの交通死亡事故原稿を苦吟しながら書き上げ、支局に持ってあがると、それを一瞥した鬼のデスクが「記事になってない」とつぶやきざま、ゴミ箱に投げ捨てるのです。それが書き直せの合図です。デスクの前の席に座り、一から書き始めるわけです。
書いては捨てられ書いては捨てられが続いて、まともに読んでもらえたのは2カ月が過ぎた頃でしょうか。出先から支局に戻りたくないと思う日々が続き、「アホ」「ばかもん」「死ね」のデスクの怒鳴り声が夢枕に立つのもしょっちゅうでした。
住み込み修業中の徹さんの苦労も相当のものだったでしょうが、記者修業も相当のものだったのは間違いありません。しかし、「それがあって今がある」のも事実。怒鳴られながら育つのです。その意味で「徹さんの今」に修業の2年が生きているのだと、しみじみ感じました。
偉そうに言わせてもらうと、理不尽な仕打ちへの我慢が今の若者にはかけているような気もするのですが、いかがでしょうか。
さて、今回の今井のメニュー紹介は、夏場に登場してくる豪華鍋「鱧(はも)すきうどん鍋」です。6代目で当時の社長、今井清三さんが本店の建て替えを決断。1991年(平成3)3月、工事着工と同時に仮店舗「味わい橋店」での営業を始めたのですが、仮店舗の目玉メニューとして登場した二つの新商品の一つです。
清三さんの片腕だった元常務の水野勝廣さんの発案で「うどん寄せ鍋」のメニュー化がまず決まりました。その時、清三さんが「夏のうどん寄せ鍋はどうすんねん」と切り出して採用したのがこのメニューなのです。新メニューは仮店舗時の営業には間に合わず、実際は完成なった新ビルでの営業を始めた翌92年の夏から提供され、鍋の夏バージョンとして好評を得ています。
清三さんの季節感でいうと「夏は、鱧と夏祭り」。季節にうるさい先代は涼を演出する「紙鍋」と「主菜は鱧」にこだわりました。純白の鍋に純白の鱧、旬の食材である淡路産のタマネギ、ささがきごぼう、冬瓜(とうがん)に、焼き豆腐、こんにゃく、生麩、焼きもちを添え、淡白な鍋に仕上げました。お客に出す直前、酒、みりん、うすくち醤油で作った独自のタレに鱧を浸す工夫がその味を引き立てます。鍋ながら、さっぱり感がこたえられません。自慢の「今井の出汁」にもなじんだ鱧をつつきながらビールを傾け、「暑気を制する」のも乙なものです。
1978年(昭和53)10月、道頓堀に場外馬券売り場、ウインズが開設された。
その数年前、日本競馬会(JRA)から地元、道頓堀商店会などに持ち込まれた話だった。地元の反応は二分され、カンカンの議論が続いた。最終的に商店会も同意し、「ウインズ道頓堀」の名で相合橋筋の南東側にお目見えしたのだ。競馬が開催される週末ともなると、それまでの道頓堀の客とは違った人たちがどっとやってきた。
その翌年、今井の7代目、今井徹がシンガポール・UWⅭ校に入学。今井の一族で初めて海外留学を果たしたのだが、このあたりから、米・カリフォルニア州立大フレズノ校を卒業し、割烹料亭「喜川」*に住み込んで修業にいそしんだ7、8年の間に、道頓堀は町の表情を大きく変えた。*「喜川」の「喜」は、漢数字の「七」を三つ重ねた略字で書くのが正解ですがここでは略字を使用させていただきます。
徹がシンガポールに向かった79年(昭和54)の5月、二代目沢村藤十郎が大阪市や民労協の支援で立ち上げた自主公演組織「関西で歌舞伎を育てる会」が、「朝日座」で第一回公演にこぎつけた。これに呼応し、暮れには関西歌舞伎の船乗り込みが復活した。55年ぶりのことである。直前に、関西歌舞伎の発祥地・道頓堀で一度も歌舞伎公演がない年を経験しながら、新たな流れを作る一歩ともなった。
6月には、汚濁が目立つ道頓堀川に、水質浄化用の噴水装置「エアレーション」24基が設置された。白い半円型の装置が点々と水面に並び、夜にはそれが、美しい光の変化を見せた。
82年(同57)6月、宮本輝の小説「道頓堀川」が、同じ題名で映画化された。この川を舞台にした初の映画である。深作欣二監督、松坂慶子・真田広之が主演。戎橋と思われる位置から道頓堀の赤い灯青い灯を見るシーンが再三登場した。
84年(同59)3月20日、国立文楽劇場が開場し、初公演がスタートした。これに伴って、道頓堀五座の一つとされた「朝日座」が幕を下ろした。
同じ年、「角座」が休場。映画館を中心としたテナントビル「KADOZAビル」に生まれ変わった。ビルはその後、お笑いの殿堂に変わった。そして今、中座と人気を二分した芝居の原点のおもかげはない。
町は、時代とともに表情を変える。しかし、その変わりようはあまりに激しかった。
大阪城築城400年を前にした82年4月8日、「大阪を、21世紀に向けた世界に貢献する国際・文化都市にしよう」と、自由・活力・創造を統一テーマとした「大阪21世紀協会」が発足。その後の大阪での文化行事の多くを担うことになった。
大阪を舞台にした凶悪事件も多発した。
79年1月、天王寺にほど近い三菱銀行北畠支店で、梅川昭美が警官ら4人を射殺し、行員を人質に立てこもった。二日後、行内で猟銃を構えていたところを狙撃され死亡。事件は急転解決したが、その残忍さが世の中を震撼させた。84年3月には「かい人21面相」を名乗るグループが食品企業を次々脅迫(グリコ森永事件)。脅迫は1年5カ月にわたり、未解決のまま時効が成立した。
1987年(昭和62)のゴールデンウイークに入る直前だった。年季明けの3か月前あたりだったか。「喜川」のおやっさん、上野修三が、徹の先輩にあたる煮方の子に「(徹に)教えたれや」と指示した。先輩といっても、おない年の子だった。
その先輩が「高野豆腐を炊け(作ってみい)。お前がうまいと思う味にせい」と徹に言う。必死になって作り、先輩に出した。それをちょっぴり口にした先輩が一喝した。「これ、ほんまにうまいと思うか」。徹には返す言葉がなかった。
「ビビるな。ビビったらあかんのや。しっかり(自分が思った)味をつけよ」
静かだが、厳しい先輩の一言が、今も耳に残る。怒鳴りまくる先輩だったが、一番よく教えてくれた先輩でもあった。
料理人として一人前になるのには、10年はかかる。大卒で修業を始めても、18歳で修業に入った人には、一生追いつけない。
めまぐるしく変わる世の動きから隔絶され、ひたすら料理の道で努力を続けた住み込み修業の2年で、今井徹が学んだのは、そんな厳しい現実だった。2年で、料理人の「り」の字ぐらいまでを教えてもらったような気がする。その中で、「雇われる(使われる)人間の気持ちを学ぶことができた」ような気はした。
「料理とは何ぞや」
をも、住み込み修業の2年の間におやっさんから、そしておない年の先輩らから、徹は味の世界のありようをしっかり学んだ。
「味付けはレシピではない。自分のイメージだ。でないと、自分の味はできない」
「どんな味で、どんなあしらいで、どんな器に盛るか。すべての完成形をイメージして(料理に)とりかからなあかん」
こんな言葉が頭から離れない。
そして最後は
「料理は材料やない。人や」だった。
調理の現場から離れて20年以上になる徹の「料理哲学」は、あの時のままである。
年季を終える直前だった。梅雨明け後の暑い日、上野は徹にきっぱりと言った。
「お前は料理人には向かん」
そして、
「やっぱり経営者や」と続けた。
さらに上野は言った。
「お前が(喜川で)覚えたことを(今井で)すぐに出したらあかん。(今井の調理場で)まず、今井のことを勉強せい。それからや、覚えたことを出すのは。でないと、みんなが付いてこん」
餞別代りの、最後の指導ともアドバイスともいえる上野修三の言葉だった。
そして、住み込み先のアパートを出た徹は8月、常務の肩書で「㈱今井」に入社した。本店厨房で出汁作り、麺打ちの新たな修業に入ったのである。常務とは名ばかり。社長の子であることも肩書も忘れた。そして、上野のアドバイスをきっちり守った調理場作業を7年も続けたのだった。途中、東京店での勤務もあった。無論、ここでの仕事も調理場作業が中心だった。
割烹料亭「喜川」の板場には、追い回し、焼き場、中板、煮方、そして花板の序列があった。今井の場合、これに似た持ち場として「丼場」「麺場」「点心場」「出汁場」がある。この上に店長がいて全体を仕切った。
「麺場」には、麺の湯がきが専門の釜前、伝票の管理をし麺場の司令塔ともいうべき中台、火を通す作業をもっぱらにするコンロ前とがある。
「出汁場」は料理店の煮方に近い役割を持つ。序列の最高位だ。
徹はそのすべてを7年で経験した。34歳になっていた。「喜川」での経験がいたるところで活きた。
「喜川」での修業と、調理の現場に立ち続けた今井での7年と。そのどちらもが、社長としての徹の背に今も生きている。
<筆者の独り言>
筆者が新聞記者としてスタートを切った1968年(昭和43)、「昭和元禄」が流行語になりました。高度経済成長の真っただ中、経済大国となった日本の太平ムードあふれる世相をとらえた言葉です。一方で、2年後に万博を控えた大阪に「がめつい」「ど根性」のイメージも定着。上方歌舞伎や文楽が観客減に見舞われて存続が危ぶまれつつあった時期でもあります。
そんな年に、伝統芸能の衰退を止めようと創刊された木津川計さんの季刊誌「上方芸能」が、読者減少と資金難からこの5月発行の200号で終刊となりました。
「木津川計さんの」と書いたのは、創刊以来長く編集長をつとめ、80歳の今も発行人を続けるなど、「上方芸能」は彼の存在そのものだったからです。発行部数は最高でも3000部前後。採算割れもものかわ、私財を投じながら大阪の文化のいい意味での再生を願いながら、木津川さんは大阪の都市の品格を高めるため辛口の論評を続けてきたのです。
4年前、文楽への補助金削減方針を示した橋下徹大阪市長(当時)に「上質の文化の振興には公的支援が必要」と、特集を組んで反論を展開したのも木津川さんならでは。歯に衣着せぬ注文ぶりは衰えることがありませんでした。私的支援を48年も続けながら、刀折れ矢尽きての終刊に思えてなりません。
残念でならないのは、質の高い文化誌が最後まで大阪市民の理解を得られないままに終わったことです。それは、部数が伸びなかったことに端的に表れています。その意味で、大阪市民が木津川さんの「上方芸能にかけた情熱」を奪ったといえなくもありません。
「上方芸能」がなぜ売れなかったのか。活字文化の衰退という一言ですましてしまうものでは到底ない、とも思うのです。
さて、今井のメニューで他店にはまったく見られない「そばサラダ」を紹介しましょう。
メニューに登場したのは、「アメリカ村」がミナミにお目見えして話題になり始めた昭和末期。それにつれてヤングや、ミナミにどっと繰り出した若い女の子に受けるメニューを、と考え出されたのが、野菜どっさりの「そばサラダ」なのです。
社長の今井徹さんが取材の延長で同席してくださった中、早速、試食させてもらいました。
出てきたのは、どっさりの野菜類が盛られた涼しげな器。その中央に車エビがいるのですが、そばはまったく見えません。側におしゃれな壺に入ったタレがついてきました。
「これ、サラダじゃありませんよね。おそばですよね」。「もちろん。タレをかけ、丁寧に混ぜて召し上がってください」。社長の説明に納得しながら手順を進めるのですが、野菜が多すぎるせいか、なかなか混ざらない。加えて、おそばが出てこないのです。
具をチェックしてみました。車エビに焼き豚、錦糸タマゴ、あとはレッドオニオン、ニンジン、ホワイトアスパラ、きゅうり、セロリ、トマト、アボカド、セロリ、パイナップル、レタス。野菜が10種に計13種もの具があり、その中にざるそば一人前分のおそばが隠れていました。
タレは、焼き豚を炊いたタレを中心にざる出汁、お酢、ごまを合わせたオリジナルのもの。ドレッシングというほうがぴったりします。
あっさり、すっきり、シャリシャリサクサク、涼味満天、まるでサラダを食べている印象です。カープ女子の向こうを張って、道頓堀女子なる方々がおられたら、大喜びのメニューといえるような気がしました。
学校から戻って間もなく、小学4年生の今井7代目、今井徹は、JR阪和線の上野芝駅に向かって家を出た。新興住宅地にある自宅を出ると、家並みがすぐに途切れ、駅周辺は一面の田んぼに囲まれている。いつもならザリガニ取りに興じる遊び場を、徹はルンルン気分で通り過ぎた。6代目の父、清三からの電話で夕食に誘われ、道頓堀の店に向かっていたのだ。10分近くはは歩いただろうか。駅につき、ほどなくホームに滑り込んだガラガラの電車に徹は飛び乗った。
そのころの今井家は、清三、道子夫婦が店に出、5代目、寛三とマチ子の夫婦が孫、徹の面倒を見ていた。普段、日々の食事はマチ子が作り、3人で食べるのだが、月に一度、父、清三が徹を呼び出し、母、道子も交えた親子3人のひと時を過ごした。この日は、そんな特別な日。徹の表情がゆるみっぱなしなのも当然だった。
店に着くなり、外出着に着替えて待っていた両親と一緒に外にでた。近くの日本料理の店に入った。店の名も場所も、何を食べさせてもらったのかも覚えておらず、とにかく「おいしかった」ことだけが頭にある。
10歳にようやく達したばかりの少年にとって、親子3人の会食はいつも豪華で、目を見張った。和、中華、フランス料理の店と、当時一流といわれたお店に行くのが常だった。何度も行ったホテルプラザ最上階の「ランデブーグリル」でのフランス料理のコースメニューが記憶に残る。当時はまだ珍しかったオニオングラタンスープ・パイ包みの味が忘れられない。戎橋の洋食屋「アストリア」も行きつけだった。タンシチューが絶品だった。デザートのマスクメロンは、当時の超高級品だった。焼肉屋にも、今井の店に近いスッポン屋にもよく行った。
日ごろは登校前の一瞬、顔を合わすだけ。夜寝付く前に両親が帰宅するのもまれだったから、水入らずの時間とおいしい料理は、徹にとって何物にも代えがたいものだった。しかし清三は、留守がちな自分たちの罪滅ぼしでこんな舞台を作ったわけではなかった。狙いは「(跡取りの)舌の訓練」だった。「おいしいものを口にしないと、本当のおいしさはわからん」が持論の清三の、後継者の鍛え方だった。徹が高校生になった段階では回数こそ減ったものの、清三の姿勢は変わらなかった。
その一方で、母、道子には別な厳しさがあった。なんといっても教育熱心だった。「一日として怒られない日はなかった。よう叩かれた」と、徹は記憶している。「あんたは二流主義や、こんなもんでいいやろとすませてしまう」というのが、叩く理由のすべてだったような気がする。月に一度の「舌の教育」が始まったころ、ボクサー犬を飼っていたガレージに閉じ込められたことがある。「朝、耳だけになってなさい」と追いかけるように言われた。相当応えた。道子のこんな姿勢も、徹が海外留学して家族と離れるまで変わることはなかった。
「厳密にいえば、私は道頓堀の生まれ育ちとは言えないかも」。徹は時にこんな言い方をする。生まれは道頓堀だが、3歳の時に上野芝の新居に移った。以来、道頓堀には月一ぐらいで通い詰めたものの、住んではいなかったからである。
そのせいもあってか、今の道頓堀がみんなの目にどう映っているか、が気になって仕方がない。青春時代の大半を海外で過ごし、住み込み修業を経験して道頓堀に出戻った身には、自分にある「空白の時代」に道頓堀がどう変わったか。それを知らない自分でありたくないのだ。こだわりから離れられない徹は「㈱今井」に入社して以降、道頓堀を強烈に意識した。同時に、この町とともに生きていく姿勢を徐々に鮮明にしていった。
その第一弾が、店の名(通称)「御蕎麦処 今井」の変更だった。
先々代から慣れ親しまれた呼び名の「御蕎麦処」をやめ、新たに道頓堀を入れて「道頓堀今井」としたのだ。1987年(昭和62)、常務で今井に入社、95年(平成7)11月、清三を継いで社長になり、1年もたっていなかった時期である。
実はこの時期、徹はそれまでのわが人生35年の中で、特筆すべき「激動」の中を生きている。
今井への入社と同時期に、5年間交際していた釜下悦子と結婚、6月には「東京店」へ異動となり単身赴任。8月1日には長女、晴日が誕生した。東京店の収益が好転せず、翌年8月、撤退を余儀なくされた。異動してきて1年余。開店からわずか5年。聖心女子大に入学した妹、美香が店でアルバイトを始めて4カ月しかたっていない時期である。自らが判断し、父で社長の清三に撤退を進言する苦渋の決断だった。
91年(同3)には清三が主導して本社・本店ビルの建て替え工事に着手。そのさなかに㈱今井の資本金を1000万円に増やした。本社・本店ビルは翌年5月には完成。そして、7月16日には待望の8代目、康平が誕生した。
しかし、なにより打撃だったのは、93年(同5)秋、清三が前立腺がんに侵されている事実が判明したことだった。それでも清三は妻、道子をはじめとする周囲の入院の勧めを拒否、手術を含むがん治療をほとんどせずに店に出続けた。
その2年後に社長に就任。この年1月、阪神・淡路大震災に見舞われた。M7.2の直下型地震。死者は6300人を超え、消費が極端に冷え込んだ中での就任である。㈱今井の収支は最悪だった。東京から撤退する際に抱えた負債、本社・本店ビル建て替え資金の借り上げなどで、借金は年間売上の2倍にもなっていた。「メーンバンクから見放される寸前でした」と、徹は笑って当時を振り返る。
「今井の売り上げの8割はうどん。御蕎麦処という呼び方はふさわしくない」
通称変更の理由を徹はこんな風にさらりと言う。だが、これからの今井の進路への覚悟と「心機一転」「巻き返し」という徹の意思も、ここにはこめられていたようだ。
変更に合わせ、印刷物の「道頓堀今井」の文字の右肩に、淡いグリーンの「ひとひらの柳」が添えられた。先々代、寛三が本店入口右に植え込み、自ら「宵待ち柳」と命名した、あの柳の一枚の葉がひらりとうねって一筆書きに描かれたものだ。道頓堀と宵町柳と――今井がよって立つふるさと・道頓堀とめん類店創業を象徴する柳なのである。
新デザインは社員全員の名刺の店名に、包装紙、箸袋、ペーパーバッグの店名に記され、全部の支店で新店名が掲げられた。今では、本店の入口にかけられた暖簾に先々代の筆になる「御蕎麦処 今井」の暖簾と、入口左に掲げられた先代筆で「今井」と書かれた行灯が往時をしのばせている。
ここを原点にして道頓堀今井は、6代目のこだわりを残しつつ「7代目の今井」へと衣替えしていくのだった。
それにしても、清三の絶頂の時期はあまりにも短かった。前立腺がんと診断されて4年。治療らしい治療を断る一方で、店には出続けた。が、次第に寝込むようになり、1997年(平成9)には骨への転移が見つかって、余命は尽きた。11月25日、清三は家族に見守られて逝った。65歳。人生にやり残しを感じさせず、したいと思ったことをし続けて、短い生を駆け抜けたのだった。
長居公園近くの臨南寺で営まれた告別式の葬儀委員長は戎橋のたもとにあるテナントビル「ドウトン」の代表、田中清三。清三にとって、大阪食堂研究会(大阪食研)の仲間であり、人生の師でもあった。
商店街、花街、裏千家関連の人たち、飲み仲間、食研の仲間ら約600人が参列。取引先、ささや陶器店主で飲み仲間の高井茂が弔辞を述べ、若い死を悼んだ。
出棺の時、清三が歌い残したラブソング「慕情」(アンデイ・ウイリアムズ)が会場に流れた。飲み仲間であり、仕事仲間でもあった心斎橋のビルオーナー、一色偉任(いっしきよりとう)らとひんぱんに通ったミナミのスナックで録音されたものである。それは高く、澄み、声量豊かに会場に響いた。途端、一色が声を出して泣き始めた。涙が止まらない。一色は清三とともにあった光景のすべてをよみがえらせていたのだ。
清三の命日(11月25日)は娘、美香が乗るマイカーのプレートナンバー「1125」に今も生きている。
その2年後の10月、「中座」が老朽化と営業不振のため、閉館した。道頓堀の象徴がひっそりと消えた。
<筆者の独り言>
毎日新聞などの報道によると、大阪市内の高級ホテルで、インバウンド(訪日外国人)富裕層や高所得のビジネスマンらをターゲットにした豪華な客室、ラウンジの改修が相次いでいるそうです。このところビジネスホテルでサービス向上やハード面の充実が進んだ結果、高級ホテルとの境界が狭まり、改修で「その違いを際立たせたい」「さらなる高級感アップを」との狙いが秘められているようなのです。
5月から高価格帯客室(58室)の改修に入っていたウェスティンホテル大阪(北区)は、7月中旬までに全室の改修を終え、営業に入る予定です。「ヨーロピアンクラシックと安土桃山時代のイメージを融合した空間がテーマ」だそうで、朝食メニューなどサービスも刷新。約6万~30万円だった通常料金も一部客室で約15パーセント値上げするとか。「2020年の東京五輪開催に伴うインバウンド需要の活性化を見込んだ」そうで、国内需要の掘り起こしも狙っています。
スイスホテル南海大阪(中央区)も約3億5000万円を投じて5月から改装中で、うち53室は9月1日にリニューアルオープンの予定です。改装前は約9万~39万円だった基本料金(一人利用の場合)も改装後は「多少の値上げを想定している」とのこと。
高級化、おおいに結構です。心斎橋筋や道頓堀で見る限り、眉をひそめさせるインバウンドも散見されます。爆買いもその象徴といえるでしょう。そんな外国人だけではないとは思うのですが、これからはビジネスホテルのみならず、高級ホテルも常に満杯という大阪になれたらいいなあ、と思います。
さて、今回紹介する「今井のメニュー」は「ひやしあめ」と「青煮梅」です。
かつて、大阪の夏の清涼飲料水といえば「ひやしあめ」でした。今はすっかり姿を消したのに、それがここに生き続けているのです。水あめにしょうが汁を混ぜ、冷え冷えのお水で薄めて出来上がり。ですが、今井のそれには粉々に砕いた氷がどっさり入っていて、頭のてっぺんがジーンとくるくらいに冷たいのです。
時代が「昭和」のころ、大阪松竹座の向かいにフレッシュジュースを売る「エイト」というお店があって、道ブラ族に「エイトのジュース」と呼ばれて人気がありました。桃、イチゴ、メロンといった果物に卵黄、はちみつを混ぜてミキサーにかける「高級ジュース」ですが、しゃれたカップに注いで出す前に粉々の氷をカップにどっさり入れるのです。「これがいい」というので評判になったのですが、今井のひやしあめも「親父(6代目、清三さん)がエイトのことを知っていて、これを真似たのかも」と、7代目、徹さんは言います。その徹さんも中学生時代は道頓堀の本店の前に出された屋台でひやしあめを売るアルバイトをしたそうです。今はそんな屋台も出していないようなので、店内に一歩踏み入れ、大阪の懐かしい味を粉々の氷とともにどうぞ。
もう一つは「青煮梅」です。
粒ぞろいの青い南高梅の表面を針でつついて無数の穴を開け、ゆがいて酸味をほど良くとった後、蜜に戻してじっくり炊き上げたもの。冷やしていただきます。梅が出始めた時期限定のデザートで、含むと酸味を残した甘味がほんのりと口に広がり、何ともいえません。
今井の看板メニュー「7月の季節そば」には必須のデザートでもあります。
高速道路を時速100㌔前後で走っているのに、ハンドルを握る今井の7代目で「㈱今井」の社長、今井徹には、じりじりするほどゆっくり感じられた。早く現場にいかなければ。店は燃えてしまったのかどうか。焦った。―――2002年(平成14)9月9日未明のことである。
前夜、徹が泉大津の自宅に戻ったのは、午前零時を回る寸前だっただろうか。人出の多い日曜日で、道頓堀の本店は予想通り、客足の途切れることがなかった。妹、美香を一足先に帰らせ、自分は店に泊まるつもりだった。ふと気が変わり、最後の戸締りをして店を出たのが日付変更線をまたぐ30分ぐらい前だったような気がする。
妻、悦子と話す時間も惜しいように入浴をさっと済ませ、床に就いた。蒸し暑さが消えない残暑の夜だった。
寝入りばな。枕元の電話がけたたましくなった。警備会社からだった。怒鳴るような甲高い声が「ドウトンビルが爆発し、今井が燃えています」と、叫ぶように言う。
「おかしい」。徹は一瞬思った。ドウトンビルは戎橋の南東詰め、道頓堀川の南岸を東にいってすぐのビルだ。今井の本社・本店ビルとはだいぶ離れている。そこが火元だなんて。だが、「店が燃えている」という事実に気を取られ、徹は「すぐ行きます」と答えていた。
傍らの悦子に事情を説明しつつ急いで着替え、マイカーに飛び乗って高速道路へ。もどかしい思いで北へ向かった。
午前4時に少し間があったかもしれない。湊町インターで高速を降りた。その直前、西北西の方向に真っ赤な炎が見えた。「いかん」とつぶやきながら千日前通りを東進。その通りと千日前筋とが交差する東北側に路上駐車し、千日前筋を北へ駆け抜けようとした。が、野次馬の群れにさえぎられ、思うように進めない。それをかき分けるように前進した。右に見える法善寺横丁の飲食店が炎と煙に包まれ始めていた。
9月9日午前3時10分ごろ、解体工事中の中座が爆発音とともに炎上。鉄筋コンクリート地上4階地下一階の約3000平方メートルをほぼ全焼、隣接するうどん店「道頓堀今井」や南側の「法善寺横丁」の12店舗にも延焼し、約1000平方メートルが焼けた。火は午前8時半ごろ消し止められた。解体工事中の作業員2人と消防隊員2人が重軽傷を負った。作業員らは当時、ガス管のガス抜き作業をしていたといい、何らかの原因で充満したガスに引火し、爆発したとみられる。
中座は99年10月に閉館、取り壊し作業中だった。
新聞各紙の夕刊が伝えた「解体工事中の中座のガス爆発事故」の概要である。
徹はやっとの思いで道頓堀通りに出た。ラーメン店「金龍」のところに非常線が張られ、通りを西に進むことはできなかった。法善寺横丁が完全に火に包まれた。徹が名を告げ、「店へ」と言っても、非常線の中には入れてくれない。中座の工事用の塀が通りに倒れているのが見えた。
夜が明けそめ、下火になったころ、ようやく非常線内に入れてもらった。店のすぐそばまで行き、指揮台にいる消防幹部に名前を言って、「店の一階金庫に土・日曜日の売り上げが残っている。取らせてくれ」と頼むのだが、ここでも「今は駄目」の一点張りだった。
この日、美香が上野芝(堺市)の自宅に戻ったのは午前零時を少し過ぎていた。母、道子はまだ起きていた。二人でしばらく雑談をした後、道子が入浴した。
入って間もなくの午前3時半ごろだったか。電話がけたたましく鳴った。以前契約していた警備会社からだった。美香が受話器を取った。そして、道子にかわった。
「今井の店から出火し、中座に延焼した」の一報が伝えられた。徹が聞いた「ドウトンビルから出火」が、こちらでは「今井が出火元」だった。
道子は一報を義弟の徳三に連絡。すぐに着替え、美香が運転するマイカーの助手席に。高速に入ってしばらくすると、道頓堀あたりの方角から煙が見えた。数時間前に店を離れたばかりの美香は、火元は1階と5階にある調理場のどちらなのか。店じまいの時、一階の調理場はチェックしたが、5階の調理場はチェックしなかった。それが不安だった。
そのころから、道子の様子がおかしくなった。いつもなら「男より男っぽい」道子が、「今井が出火元」と聞かされたことで、頭が真っ白になってしまっていた。
高速を降りたのは午前4時をまわった時分かもしれない。御堂筋と千日前通りの交差点の東北角に車を停め、道子の手を取って戎橋筋を北進しようとした。しかし、いたるところに非常線が張られていて進めない。ジグザグで北に向かい、やっとの思いで千日前筋に出、ようやく道頓堀通りへ。パンパンに水をのんだホースが通りをびっしり埋めるように伸び、歩くのも危険なくらいだ。
美香は店のある方角に目を向けた。2台のはしご車が消火活動を続ける脇から、宵待柳がそのままの姿で残っているのが見えた。「うちの柳、無事やよ~」と思わず叫んだ。そして、「火元は今井と違う」と感じ始めた。
当時、本店長だった山本直人(現在は総料理長)に連絡をつけたのは道子だった。だがそれが、自宅を出る前だったか、美香運転の車の中からだったか。今も記憶がない。
「火事や。火元は今井や。すぐ行ってちょうだい」
それは命令だった。
山本は真っ青になり、上本町の自宅から自転車で飛び出した。店までは15分足らず。前日、徹社長から「今夜は(店に)泊まる」と聞いていたのを思い出し、こっちも心配で仕方がなかった。4時半ごろ、現場に着き、ほどなくして徹と顔を合わせた。泊まらなかったことを確認できた時のホッとした気持ちは、今も忘れられない。
それぞれがそれぞれの思いで店の周辺にいながら「店がどうなったか」を知らないまま時間だけが過ぎ、火勢が弱まるのをひたすら待った。
夜が明け、周囲が明るくなった5時半ごろ、店の方から東へ向かって歩いてきた徹と道子、美香がやっと合流した。
「火はうちから出たん」
一番気がかりだったことが美香の口をついて出た。
「いや」と言った徹は「お前の携帯貸してくれんか。今はいらんやろ」と続けた。
聞けば、前夜は店に泊まるつもりで携帯を置いたまま帰ったらしい。
そんなやり取りののさなかにも道子は「うちが火元なんや」と言い続けた。現場にいる間、道子は正気に戻らない。親しい友人が非常線を突破して店に駆けつけてくれ、道子の手を握ってついてくれていたのに、その人が誰かの判別もつかない風だった。もちろん、現場の生々しい状況は今もまったく記憶にない。「夫(故清三)が、お前は何も見るなと、目にふたをしてくれたようだった」と言うのだった。
7時ごろになって、店の従業員らも駆け付け始めた。
鎮火した8時半ごろから水浸しになった建物に入ることが可能になった。徹、店長の山本らが最初に店内に入った。道子、美香、従業員らも続いて中へ。
8階は全焼、7階は南西部を部分焼、6階から下は水をかぶったものの無傷に見えた。しかし、猛火をじかに浴びた西側外壁は全面軽石状に焼けていて、すべて取り替えが必要だったことが後でわかった。
水に濡れた床にみんなが無言で立ち尽くし、散らばった書類や貴重な資料を片付け始めた。ウインズ道頓堀の増築工事にかかっていた大林組の現場事務所に、それらを預かってもらえたのが救いだった。
立ち直れるだろうか―――。
徹は、同じ時期に交渉が進んでいたリーガロイヤルホテル(大阪市北区中之島)への出店の話をふと思い浮かべた。
「本店での営業は当分ダメ。でも、従業員は新たな出店先で抱ええられる」
徹は父、清三のこだわりと強気を受け継いだのだろうか。したたかな計算に裏打ちされた「明日の今井像」を、その時すでに描き始めていた。
<筆者の独り言>
「外国人、ミナミ大好き」
7月上旬の全国紙各紙に、こんな見出しのニュースが躍りました。
三菱総合研究所が関西の主要観光地別の2015年の訪日外国人数(推計値)を発表したのですが、そのトップを走ったのが大阪の難波・心斎橋エリアだったからです。
同研究所は今年2~3月に関西国際空港で、中国、韓国、アメリカなど9か国・地域からの観光客約2000人に▽滞在中に訪問した観光地▽利用交通機関▽宿泊先―などを聞き取り調査し、それをもとに観光地別の外国人客を推計しました。
ともあれ、そのベスト15(カッコ内は府県名、数字は訪問者数―万人)をみると、
▼1位=難波・心斎橋(大阪)588▼2位=梅田・大阪駅(同)497▼3位=東山(京都)392▼4位=大阪城(大阪)383▼5位=日本橋(同)265▼6位=金閣寺周辺(京都)253▼7位=USJ(大阪)232▼8位=京都駅周辺(京都)209▼9位=宇治・伏見(同)202▼10位=二条城・烏丸・河原町(同)192▼11位=あべの・天王寺(大阪)156▼12位=嵐山・嵯峨野(京都)150▼13位=通天閣・新世界(大阪)128▼14位=神戸・三ノ宮(兵庫)109▼15位=奈良公園・東大寺(奈良)103 ―――――といった具合。
国内の観光客が関西にやってきてまず訪ねるのは京都に奈良、が常識。外国人旅行者でも同様の傾向にある、と思っていたのですが、まったく違うのですね。しかも、難波・心斎橋が梅田・大阪駅を抜いてトップに座り、京都は東山がやっと3位に顔を出す程度。さらに4位に大阪城、5位に日本橋とくるのですから、ミナミ人気はぶっちぎりのトップといえるでしょう。この連載を始めてひんぱんに訪ねる道頓堀は難波・心斎橋と日本橋の両エリアに含まれおり、「いついっても外国人であふれている」と思うのも当然。この数字がそのあたりを如実に証明しています。
何故、大阪・キタや京都を上回る数字なのか。ホテルのほか、ブランド品が買える百貨店があり、外国人に人気のドラッグストアがそろうなど利便性の高さが大阪・ミナミにはある。そのあたりが外国人の人気を呼んでいる、のだとか。
観光が単なる名所旧跡めぐりではないことを、この事実が教えてくれているようです。当然ながら「食」も重要な要素の一つです。
さて、「今井のメニュー紹介」は「ひやしにゅうめん」です。
数ある今井のメニューの中で「7月のみのメニュー」というのは、これと、月替わりの季節そば「白波そば」だけかもしれません。
白波そばと同じ、やや濃い目のお出汁を思いっきり冷やし、それに三輪そうめんを泳がせて、車エビ、甘辛く炊いたシイタケ、三つ葉の軸を炊いたものをのせたシンプルなもの。暑さのせいで食欲まで落ちるそんな季節に口にすると、背筋までがピンと伸びる思いがします。
7月限定なので、お早めにどうぞ。
江戸時代は大坂でも江戸でも、火事がひんぱんに起きている。
芝居町・道頓堀も何度となく大火を経験した。そのたびに「5座」のいくつかが焼け、芝居小屋が火元で5座すべてが炎に包まれたことも再々あった。この時代の歓楽街は、それが宿命だった。
江戸期にはそんな厄を潜り抜け、災禍に遭わずにきた「今井」だったが、明治期以降になって3度もの火災を経験した。火元になったことはなく、いずれも延焼、類焼だった。
最初は1884年(明治17)暮れの中座の火災。中座の真向かいにあった「今井」の前身の芝居茶屋「稲竹」が類焼した。1年後、中座が再開場する直前、その東隣に、つまり現在の本店所在地に暖簾をあげるきっかけとなった火災である。3代目、今井佐兵衛の時代のことで、4代目、三之助が14歳のころだった。
2度目は1945年(昭和20)3月の大阪大空襲の時。大正期、芝居茶屋から衣替えした「今井楽器店」に焼夷弾が降り注ぎ、全焼した。5代目、今井寛三が始めた大阪一の楽器店だった。一家は高槻の寺に疎開を余儀なくされ、現在のめん類店に転換するきっかけともなった火災で、6代目、清三が中学生になったころである。
そして、解体工事中だった中座のガス爆発・炎上に伴う今回の延焼事故だ。
大阪市消防局の記録では、爆発炎上した中座の鎮火は2002年(平成14年)9月9日午前8時半。未明の3時10分ごろに爆発音とともに出火して5時間余がたっていた。取り壊し工事中の鉄筋コンクリート地上4階地下1階の旧劇場「中座」約3000平方メートルをほぼ全焼。「道頓堀今井」や南側の法善寺横丁の12店舗約1000平方メートルが全焼~部分焼。消防車計52台が出動した。
道頓堀今井(鉄筋コンクリート8階建て)は、社長室、応接室などがあった8階が全焼、7階南西側を部分焼し、西側の外壁は熱風にさらされて軽石状態となり、全面解体が必要な状態だった。
鎮火後、7代目で社長の今井徹、妹の美香、幹部従業員らが、天井から滴る水をかぶりながら各階の被害状況を点検し続けた。
作業中、徹らの頭に浮かんだのは、その日に七つのデパートに納品するうどんセットを、どこでどう作るか、だった。
「(被害が軽微だった6階以下で)作れるやんな」
従業員らのひそひそ話が美香の耳に届いた。
「何言うてんの。そんなとこで衛生的にもできんやないの」
美香は思わず割って入り、ぴしゃりと言った。その通りだった。水浸しになった焼け跡で「食べる」商品が作れるはずもない。話はそこでストップした。
それなら、どうするか。誰にも答えは浮かばなかった。
そんな時だった。ホテルニューオータニ大阪店の店長だった水野勝廣に、同ホテルの日本料理の料理長から連絡が入った。
「被災を知った総支配人が、できることはお手伝いするといっている。(お手伝いすることは)何かありますか」
ホテルの総支配人は「カタクラ」という人物である。先代・清三が同ホテル地下への出店を決めたころの営業部長で、当時、今井に通い詰め、同ホテルへの入店を強く要請していた人だった。
「これには助けられました」と、徹は今も言う。
水野は、火災現場周辺にいた徹とただちに相談し、ホテル3階にある調理場付きのパ―ティ料理会場のスペースを借りることにした。
新たな場所で調理をするには保健所の許可が要る。その点、貸してもらったスペースはそうした許可もすべて取ってあって、直ちに作業にかかればよい状態だった。加えて、ホテルだから衛生的にもものすごくきれいで、いう事はなかった。
9日のうちに、使える機材のすべてを「焼け跡」からホテルに移動させ、材料納入場所の指定変更なども済ませた。翌日、移動させた機材を稼働させる一方、借りた調理場の設備や備品も使わせてもらい、7つのデパートへのうどんセット(きつね、しっぽく、鍋焼きなど)作りをスタートさせた。納品を休んだのは焼けた日の9日だけですんだのだった。
社長の徹自らが、旅行かばんにうどんセットを詰め、電車で高島屋堺店に配達したり、マイカーでの配達をもこなした。
ホテルでの作業は10月末まで続いた。
借りているホテルに代わる作業スペースをどうするか。始まりかけた中座取り壊し作業を進めていた竹中工務店、大阪ガスとの補償交渉をどうするか。
いずれも難問だったが、答えはすぐに見つかった。
新たな作業スペースは、知り合いの工務店の紹介で中央区島之内2丁目にある印刷会社跡地を購入する話がとんとん拍子で進んだ。10月末には、テイクアウト商品を専門に生産する「今井セントラルキッチン」(平屋一部2階建て)を完成させ、稼働させた。急造の事務所、社長席もこの建物の二階に置いた。これにより、ホテルを間借りしての作業は2カ月という短い期間でを終えることができたのだった。
補償交渉は、先代、清三の時代から取引のあった浄水器設置業者、高島優を顧問に迎え、彼に任せた。補償の細目を詰めるにあたり、加害者からは一担当者しか出てこないのに、被害者の方は社長が出ていくというのもおかしい、との判断からだった。竹中工務店、大阪ガスとも、当初は壊滅的な被害を受けた法善寺横丁の店舗との交渉に手いっぱい。今井はほったらかしにされたようだったが、しばらくして交渉も軌道に乗った。
そして年の暮れ、大阪で一二の格を誇るリーガロイヤルホテル(北区中之島)の地下飲食街に「リーガロイヤルホテル店」を新規開店させた。このスペースへのめん類店としての初出店である。待望の進出でもあった。本店は営業停止に追い込まれたものの、島之内の稼働と新規の支店開店で、本店従業員を分散して再配置できた。類焼被害による解雇者は出さずに済んだのだ。
類焼は不幸だったが、事後の立ち上がり、補償交渉、大阪で最高級のホテルへの新規出店と、ことはとんとん拍子に進んだ。
「ついていたんですね」
徹は、その理由をこんな風に言う。しかし、それだけではなかった。ピンチをチャンスに変える徹のめげない推進力、突破力が、そこにあった。そして、先代、先々代が築いてきた「暖簾の重み」が、多くの人の支援を呼んだともいえる。
2003年(平成15)7月、「道頓堀今井」本店と㈱今井の本社を兼ねたビルが完成し、本格営業を開始した。生き残った宵町柳が見上げてほほ笑むようなビルである。
内部も大きく変わった。
客席16とメーンの厨房だった一階は、すべてが客席(30)に変わった。一階と五階に分かれていた厨房は五階にまとめた。六階は麺打ち場とチャンバー(人間が出入りできる大型冷蔵庫)のスペースにした。元々客席だった二階、三階、四階は、小あがり(畳の席)とイス席を部分的に入れ替えた程度の小幅な変更にとどめた。
これまでなかった「副社長室」と徹の母、道子に入ってもらう「おかみさん部屋」を七階に作った。しかし、社長室のあった八階は多目的室とし、社長の席は島之内のセントラルキッチンに置いたままにした。
客席のある一~四階のトイレも超豪華に生まれ変わった。母、道子の発案で広いスペースをとり、最先端の自動設備を採り入れた。洗面台も一流ホテル並みである。トイレにとどまらず、店のたたずまいには道子のアイデアが随所に生きているという。
中座爆発炎上の年、戎橋南東詰めにあった「浪花座」が300年余の歴史に終止符をうった。浄瑠璃芝居をこの地に持ち込んだ竹本座に始まり、大西の芝居、筑後の芝居、戎座から浪花座と名を変えて生き続けたが、時代の波に勝てなかった。
その1年前の5月、「中座」の真向かいにあった道頓堀最後の芝居茶屋「三亀」が閉店、たこ焼き店に変わった。昭和初期のころでさえ存続が危ぶまれた芝居茶屋がこの時期まであったのは奇跡、といわれた。
そして、1710年(宝永7)に「角丸の芝居」として開業し、道頓堀で最初の映画上演中心の劇場に衣替えした道頓堀東映も2007年(平成19)にひっそりと閉館した。かつての面影を失ったといっていい「角座」は名のみ残っているものの、関西の芝居の殿堂としてあった「道頓堀五座」は、これで完全に姿を消した。
一方で04年(同16)12月、大阪市の道頓堀川水辺整備事業で、戎橋から太座衛門橋の間の道頓堀川両岸に親水性の高い遊歩道が完成した。両岸とも幅8メートルで、2段構造。愛称を一般から募集し、「とんぼりリバーウオーク」と名付けられた。08年(同20)4月には、太座衛門橋-相合橋間も完成した。今はここで若者たちのライブイベントがあり、世界一の盆踊りとギネス認定された「道頓堀盆踊り」がある。
川面に過ぎなかった両岸が今、確実に生まれ変わりつつあった。時代がその土地を変え、時代が町の表情までを変えていくのを、道頓堀がそのまま体現していったのである。
<筆者の独り言>
またまたインバウンド(外国人観光客)がらみの数字の話で恐縮です。
7月も下旬に入ってすぐ、二つの数字が発表されました。関西エアポートの2016年上半期(1-6月)の運営概況(速報値)と、大阪観光局の同じ上半期に大阪を訪れた外国人観光客数です。
関西エアポートの運営概況によりますと、関西国際空港の旅客数は1229万人。前年同期に比べ12%増え、1994年の開港以来上半期としては過去最高を記録しました。中国や韓国などアジアからの旅客増が大きく貢献した数字だそうで、それは、道頓堀界隈で見る現象と見事に一致しています。
国際線の旅客数は21%増の915万人で、このうち外国人は32%増の606万人。国際線旅客数、これに占める外国人数ともに過去最高だったようです。格安航空会社の新規就航や増便が相次いだことや、国際線旅客便の発着回数が約3割増えたことなどによるもので、この傾向は当分続きそうです。
もう一つ、大阪観光局まとめの大阪を訪れた外国人観光客は、前年同期比で41%増の450万人に達しました。伸び率は、15年のこの時期の記録(91%増)に比べて鈍りはしたものの、全国の増加率(28.2%)よりはるかに高い水準で推移しています。爆買いが沈静化する傾向にあるとはいえ、この伸びは驚異的です。
国別でみると、中国からの客が最も多く、180万人で前年同期比58%増。次いで韓国70万人(前年同期比49%増)、台湾63万人(同23%増)でした。アジアの御三家から大阪・ミナミに押し寄せる傾向はどちらの数字を見ても明らかです。
今回の「今井のメニュー紹介」は「ごま酢そば」。このメニューも先代(6代目)、今井清三さんの提案で生まれたものです。
あるとき、出社した清三さんが当時の本店店長に言いました。前夜、あるお店で食べた「ゴマ酢あえ」がよほどおいしかったらしく、その内容を詳しく説明した後「こんなんやったら、うちでもできるやろ」と言うのです。聞いた店長が間もなくそれをおそばのメニューで再現。味にうるさい清三さんが試食し「うん、これや」といって、すぐメニューのラインナップに載せたのが始まりでした。
今井得意の出汁をきかせた汁に焼き豚を作るときの煮汁、練りごまとお酢を加えたものたっぷりかけ、煮しめたシイタケの刻み、焼き豚、錦糸タマゴに、スライスしたきゅうりがどっさりのっています。食べた印象は「中華風のおそば」。まさに夏向きのさっぱりのど越しのメニューです。
昭和から平成まで、道頓堀の移り変わりを川べりから見つめ続けてきたのが、インバウンド(外国人観光客)にも大人気のグリコの広告看板「グリコサイン」といえるかもしれない。1935年(昭和10)に戎橋西の道頓堀川左岸のビルに初代が取り付けられ、2014年(平成26)に6代目に生まれ変わるまで、実に81年。03年(同15)4月には、その5代目が大阪市都市景観条例(1998年9月公布)にもとづく「都市景観資源」にも登録された。
条例にいう都市景観資源とは「大阪市内に存在する、景観的に優れた建造物、橋、樹木など」をいう。いうなら「大阪の代表的な景観」「それを見たら大阪が浮かぶ」といったものを指す。グリコサインはこれまでに登録された276の一つだが、最初に登録された22の景観に、四天王寺、市中央公会堂などとともに入っている。しかも、町中に氾濫する広告設備の中で唯一選ばれ、今にいたるも、これ以外の広告関連設備が登録された例はない。登録作業時の景観資源としての評価は「大型広告看板であるグリコサインは、それ自体で一つの都市景観である。戎橋の傍に出現した両手を挙げてゴールインするランナーは、第二次世界大戦を潜り抜け、戦後の混乱期と復興、その後の驚異的な経済発展とバブルの崩壊、そして今日の経済不況も見続けている。常に元気なその姿は、大阪の人々に明日への希望を与え、今では道頓堀に無くてはならない風景の一部になっている」とした。
グリコサインの初代は、現在のものより13メートル高い33メートルもの巨大なもの。ランナーとグリコの文字が6色に変化し、毎分19回も点滅する花模様で彩られた華やかなネオン塔だった。しかし、1943年(昭和18)、戦時下の鉄材供出のため、撤去された。初代誕生の年、関西歌舞伎(和事)の創始者の一人、初代中村鴈治郎が亡くなった。
2代目は55年(同30)に完成した。高さは21・75メートルと、初代より一回り小さくなったが、砲弾型の下に特設ステージがあるユニークなデザインだった。ステージではロカビリー大会もあった。大阪大空襲で全焼した弁天座が、文楽座(後の朝日座)の名で復興し、こけら落とし興行を成功させた年でもあり、今井6代目、今井清三が「御蕎麦処 今井」に入社した年だ。
3代目は63年(同38)に完成した。高さ18メートル、幅8メートル。12トンの水を使った噴水式で、吹き出す水を12色のライトが照らし、虹を描いた。この年、今井7代目、今井徹が幼稚園に入園した。
72年(昭和47)に4代目が登場。陸上トラックを点滅させ、ランナーに躍動感を持たせるおなじみのデザイン「ゴールインマーク」に変わった。㈱今井の支店第一号「虹の街店」が難波地下街・虹の街に開店した年である。
98年(平成10)に5代目が2年ぶりに復活完成。ゴールインマークの背景に大阪城、海遊館、大阪ドーム、通天閣を描いたデザインになった。
そして、現在の6代目は2014年(平成26)10月23日に点灯式。今井徹が、工事中の仮看板でゴールインポーズの代走をつとめた女優、綾瀬はるからとともにメーンゲストで式に参加。綾瀬らと並んで点灯スイッチを押した。
大きさは5代目と同じだが、これまでのネオン管に代わり、14万3976個のLEDチップを初めて使用した。
大阪の「都市景観資源」に登録された276のうち、5つが道頓堀に集中している。グリコサインに大坂松竹座、道頓堀の源流があったとされる高津宮(高津神社)、法善寺・水かけ不動尊、そして道頓堀そのものだ。その集中度は大阪一である。人が集まる最大の理由がこれらに起因する。
こんな地の利が界隈の飲食店を支えるもとなのだが、「道頓堀今井」はある時、味だけで全国ナンバーワンになった。
2005年(平成17)11月12日付の日本経済新聞紙上に発表された「食通が食べたいお取り寄せ鍋」のランキングである。今井の看板メニューであり、テイクアウト商品の切り札でもある「うどん寄せ鍋」が一位を獲得したのだ。
「NIKKEIプラス1」という特集ページで、それが紹介されている。
鍋の季節がやってきた。有名店の味を宅配便などで取り寄せて、そのまま家で楽しめるセットが人気だ。店を訪ねたり、宅配を利用したりして「鍋の通」と呼べる人たちに、食べたいお取り寄せ鍋を聞いた―――記事はそんな書き出しである。
ここで「鍋の通」に選ばれたのは▽粟飯原理咲(おとりよせネット代表)▽石原明子(料理研究家)▽片山政広(阪神百貨店食品部マネージャー)▽門上武司(「あまから手帖」編集主幹)▽亀高斉(「月刊近代食堂」編集長)▽新堂雅人(三越生鮮担当バイヤー)▽袖岡保之(「西の旅」副編集長)▽三浦明敏(伊勢丹惣菜・和特選バイヤー)▽向笠千恵子(エッセイスト)▽J・Ⅽ・オカザワ(フードライター)ら=50音順、肩書は当時のもの。この10人に「自分が食べたいお取り寄せ鍋」を最大10位まで選んでもらい、それぞれがつけた順位を加味して集計したのだという。
その結果、ダントツの450点を獲得して1位となったのが「うどん寄せ鍋」だ。
うどん玉のほか、箱に整然と詰めた20種類近くの色鮮やかな具材と熊本県牛深のうるめ節やサバ節、北海道南部の真昆布でとった透き通るようなだし(出汁)が届く、と書き、門上武司さんら多くの選者が「だしのうまさがピカイチ」と推したのだそうだ。
さらに、道頓堀今井の取り寄せ品は店でいただくものよりうどんを太めに加工している。長時間煮てもコシが残るようにとの配慮だ。また、崩れやすい豆腐や湯葉の代わりに、つみれや乾燥湯葉が入っていると紹介している。
ちなみに2位は浅草今半(東京)の「すきやき」=380点、3位は岬旅館(和歌山)の「クエ鍋」=330点。以下▽4位、紫野和久傳(京都)の「京野菜鍋」=250点▽5位、西玉水(大阪)の「はりはり鍋」=250点▽6位、秋田比内や(秋田)の「きりたんぽ鍋」=240点▽7位、かなわ(広島)の「土手鍋」=200点▽8位、美々卯(大阪)の「宅配うどんすき」=190点▽9位、下鴨茶寮(京都)の「京の鴨なべ」=180点▽10位、八起庵(京都)の「京の水たき」=180点―――。
それぞれの地の老舗が並ぶ中で、食通が選んだ1位の看板は、その後の今井の売り上げにストレートに跳ね返った。注文が急伸し、今もってそれは高止まりを維持している。道頓堀今井全体の売り上げにも好影響を与え、本店を含む各店、百貨店などのテイクアウト商品の売り上げ増にもつながった。
一位の看板を得て以降、「今井」の知名度が上がり、それにつれて業績もあがって、店舗展開も順調に推移していく。
2006(平成18)4月、大丸梅田店地下一階に㈱今井の「今井コーナー」を開設。同期の決算で年間売上が初の10億円台にのり、従業員数も前年比22人増の113人と、初めて100人台を超えた。
10年(平成22)には4月、百貨店「上本町近鉄」の地下一階に、6月、高島屋大阪店に、それぞれ㈱今井の「今井コーナー」を開設。7月には上本町YUFURA五階のレストラン街に「上本町YUFURA店」を開店。11年(同23)9月、JR新大阪駅・新幹線改札内の「大阪のれんめぐり」に新店を開店した。13年(同25)9月、日本一高い近鉄あべのハルカスに「近鉄あべのハルカス店」をオープンした。
そして16年(同28)2月1日、新店「芦屋大丸店」(持ち帰り専門)を開店。3月2日には新店「泉北高島屋店」(物販・レストラン)が完全オープン。店内奥の壁面に大正初期の道頓堀を描いたスケッチ画を掲示した。その左端には当時の「道頓堀今井」の前身である「今井楽器店」が描かれている。
これで、㈱今井の出店は12店目となった。
好調な業績とともに社長・徹の対外活動も活発になった。06年6月、道頓堀商店会会長に就任。就任直後の7月には宗右衛門町商店会の岡本敏嗣会長、法善寺前本通り商店会の鳥居学会長ら約10人に呼び掛けて「ミナミ五座文化再生フォーラム」を発足させた。「文化再生に向けた具体策を講じ、劇場というハードの再建ではなく、市民と芸術が触れ合ったソフトを見つめなおす」のが目的だった。08年6月には上方文化再生フォーラム実行委員会の委員長に、09年5月には、夏の道頓堀万燈祭実施の中心組織「いっとこミナミ実行委員会」の委員長にも就いた。
21世紀の「今井」の伸びは、その時期にやってきた道頓堀の急激な変化と重なる。インバウンドが激増、芝居とともにあった道頓堀が完全に消えてしまった、そんな皮肉な時期でもあった。
<筆者の独り言>
この連載がスタートして今回で34回。月に2回ずつの連載ですから、すでに1年4カ月が過ぎたことになります。随分長い連載です。
この間、私の頭にこびりついて離れないのは、大衆文学の世界(時代小説の世界でといったほうがいいかもしれません)で、「大坂」あるいは「道頓堀」を舞台にした、庶民あるいは商人が主人公の小説はないのだろうか、の回答を見つけることでした。それを見つけるため、大阪市立中央図書館に足しげく通い、中央図書館を起点に、何カ所かの図書館にも足を運びました。古本屋は言うに及ばず、です。
得た結論は「まったく、といっていいほどそれらしい本は存在しない」「存在しないといっていいほど少ない」ということでした。誤解のないよう言い添えると、道頓堀を、道頓堀界隈で起きた出来事を、あるいは道頓堀の芝居小屋、芝居茶屋を、詳しく正しく書いたものがない、というのではありません。そういった史実に近いものはそれなりにあるのですが、道頓堀を舞台に生きた人間を主人公にし、虚実取り混ぜたフィクションとなると、意外や意外、あるようでないのです。
いくつか例を上げると、司馬遼太郎の「俄(にわか)」「大坂侍」や高田郁の「銀二貫」などが頭に浮かびます。「俄」は「どつかれ屋」という珍商売で名だたる侠客にのし上がった男の物語。「大坂侍」は主人公がいずれも侍だから対象外です。そして「銀二貫」は仇討ち志願の武士から寒天問屋の丁稚になった男の人情物語です。
いうなら、私が求める小説に一番近いのがこの「銀二貫」かもしれません。ただ、これだけなのです、おめがねにかなうのは。しかし、これとて大坂が舞台とはいっても天満界隈から南は順慶町通りあたりまで。私が理想とする道頓堀界隈までは出てこないのが残念です。
なぜ、こんなにも少ないか。答えは簡単。大阪を書く小説家が少なすぎるから、です。廓・吉原をシリーズで取り上げる佐伯泰英、江戸の下町・深川の人情話に傾斜した山本一力、八丁堀は同心の世界を書きつくす鳥羽亮、捕物余話シリーズで売る宇江佐真理・・・
数え出したら江戸を舞台にした世界を書く小説家はいくらでもいる。それに引き換え、大坂は当時の文化の程度は江戸をしのぎ、武士はほんのわずかしかいない日本で唯一の町人の町でありながら、それらをテーマや題材にした小説は本当に少ない。あのは高田郁だって、江戸の小さな料理屋を舞台に、大坂出身の主人公が活躍する「澪標料理帖」で売り出した江戸の小説家。「銀二貫」は初めての大坂物だったのです。
なんとかならないか。
こちらも答えは簡単です。大阪に傾斜した小説家が増えることです。さらに大事なのは「大阪を書けば売れる」と考える小説家が増えないといけません。こうした小説家が増え、「書けば売れる」が定着すれば大阪物は増えます。その意味では「増えるも増えないも大阪の人次第」というのが一番正しい答えかもしれません。
今回の「今井のメニュー紹介」は「手打ちざるそば」です。
「今井」の暖簾をくぐった方ならお分かりかと思いますが、お店で注文が断然多いのがうどんです。そんな中で「御蕎麦処今井」の暖簾に最後までこだわったのが、先代(6代目)の今井清三さんでした。「御蕎麦処」と銘打っているのに「手打ちがないなんて」というわけです。こんなお声がかりから、機械打ちのそば以外に手打ちも提供しようとメニューに載ったという次第。「手打ちざるそば」はその代表例といえるでしょう。
現当主の7代目、今井徹さんの説明では「機械打ちと比べると、手打ちは断然おいしい」。そばを打つときに加える水の量を「加水量」というのだそうですが、手打ちは機械打ちに比べて1.5倍ほどの加水量になるそうです。加水量が多ければゆがく時間が短くなり、細めのおそばなら「機械打ちで1分20~30秒かかるところが20秒ですむ」そうで、早ければ早いほどそばの甘味や香りが残るのだとか。
名店といわれる老舗でも、手打ちはめったにお目にかかれない昨今、「ひきたて、打ちたて、ゆがきたて」の三拍子そろった手打ちそばを「道頓堀今井」で味わってみてください。