道頓堀の芝居茶屋に生まれ育ち、関西の芸能、演劇にかかわって生涯を過ごした三田純市が自著「道頓堀 川・橋・芝居」で、大正から昭和初期にかけての道頓堀を舞台にした粋な遊びを、いくつか紹介している。
その一つに、通人が考え出したといわれる「洋行ごっこ」がある。
五つ紋の紋付きに仙台平の袴といった正装の男が、戎橋北詰から「祝洋行〇〇君」と書いた幟に送られて、川岸につないだランチに乗り込む。宗右衛門町の芸者や幇間(たいこもち)ら見送り人がバンザイ、バンザイと張り上げるうち、ランチは川下へ滑り出す。ランチが滑り出した瞬間、見送り人一同は川岸を西に向かって走り出す。大黒橋のたもとに着いた一同は、今度は「祝帰朝〇〇君」と書いた幟を掲げ、さっきは和正装だった男がモーニング姿に着替えてさっそうと降り立つのを迎え、全員で帰朝歓迎会という名でしつらえられたお茶屋の宴席に繰り込むのだ。
遊びを思いついたのは京都の粋人だとか。歌舞伎作家であり、川柳作家としても知られる食満南北(けま・なんぼく)が、美談としてよく口にしたらしい。無意味な、だが、奇想天外な遊びは暗い世相の中には生まれない。明治末期から大正にかけて日本が到達した豊かさと、それを支える庶民の余裕が奇妙な遊び「洋行ごっこ」を生んだのだった。
「今井」が芝居茶屋経営を放棄し、楽器店へと鞍替えしたのは、粋な「洋行ごっこ」が道頓堀ではやり始めた時期にぴったり当てはまる。
この時期、道頓堀は芝居一辺倒の町から、旧来の芝居と新しいジャンルの芸能、映画が共存する町へと変貌していく。芝居小屋が、歌舞伎と人形浄瑠璃を中心に興行した世界から新たに生まれた喜劇、新派劇、新国劇を興行し、政談演説会までを手掛ける世界に変わっていった。この時期に日本に上陸したトーキーを上演、映画専門館に早変わりした小屋もあった。
一方で、芝居茶屋は激減した。道頓堀の浜側に並んだそれは、廃業が相次いだ。廃業の跡地、空白を飲食店が埋め、時代を象徴するカフェ、キャバレーが進出した。昭和初期という時代をかっ歩した「モボ」「モガ」(モダンボーイ、モダンガール)が通りに目立った。
カフェは大阪の文化人の創作の拠点ともなっていった。岸本水府、食満南北をはじめとする川柳作家、宇野浩二、藤沢桓夫ら若き小説家がカフェに入り浸った。
「今井」の4代目、三之助が江戸期に創業の芝居茶屋「稲竹」を、同店のお茶子頭だった野村照に譲って廃業。5代目、寛三が三之助との話し合いの末、同じ場所で「今井楽器店」を始めたのは1916年(大正5)の春。トルストイの「復活」の劇中挿入歌「カチューシャの唄」(松井須磨子)が大流行していた。寛三が府立天王寺中を卒業したばかりのころであった。
大転換が決まってからは、寛三は神戸の楽器輸入商の店に出入りし、カラーチェのギターやマンドリンといった輸入品を仕入れてはショーウインドーに飾った。当時の西洋楽器はすべてが輸入品。陳列された楽器は、単に楽器というだけでなく、日本に入ってきた外国そのものでもあった。
ショーウインドーには、竹久夢二の表紙絵がついたセノオの美しい楽譜も並んだ。「城ケ島の雨」「宵待草」「叱られて」「リゴレット」などの楽譜は、譜面台を使って道頓堀の通りに向いた窓に並べられた。店の奥には蓄音機やレコードもたくさん並べられ、試聴室まで置かれた。
道頓堀通りの中座の隣に今井楽器店というモダンな店があった。今は、「今井」という名物のうどん屋に商売替えしているが、当時は大阪一の楽器店だった。ショーウインドーに、弦楽器や打楽器とともに金ぴかのトランペットやサキソホン、トロンボーン、チューバなどが沢山陳列されていて、一種独特の夢の世界をかもしていた。僕の足は自然にとまり、店頭に長い間たたずんで、楽器を眺めてすごすのが常であった。それらの金ぴかの洋楽器はさまざまな空想をかきたててくれる。(中略)美しい楽器の群れを前にして、とめどもなく空想は広がるが、それらの世界は、実生活においては、ぼくに無縁であった。
大阪が生んだ作曲家、服部良一が今井の向かいにあった鰻の店「いづもや」が始めた「いづもや少年音楽隊」の一期生としてフルートを吹いていたころを回想した自伝「僕の音楽人生から」にこう書いている。
そこは時代の最先端を行き、大正モダニズムを象徴した西洋楽器店だった。「今井楽器店」には、キャバレー「赤玉」や「マルタマ」に出演するジャズバンドのメンバーから音楽愛好家がよく顔を見せ、後にバイオリニスト、辻久子もこの店の常連となった。
この時代を懐かしむ世代にとって忘れられないものの一つに「道頓堀ジャズ」という言葉がある。これは服部良一が言い出したものである。これも自伝「僕の音楽人生から」に出てくる。
道頓堀周辺をニューオーリンズのようだ、と思った一時期がある。大正の末のころだ。ニューオーリンズは、音楽好きの人なら誰でも知っているアメリカ南部・ミシシッピー川の河口に近い大都会、ジャズ発祥の地として有名である。正確には、ジャズが音楽的に形をととのえて、爆発的に演奏された町、というべきか。
大正末のミナミと呼ばれる大阪・道頓堀周辺の歓楽街の、酒場(カフェー)やダンスホールや町角にジャズが満ちあふれていた。ミシシッピー川をジャズ・バンドを乗せて上り下りしたという絢爛たるショーボートこそなかったが、道頓堀川に浮かんだ粋な屋形船で熱演するジャズ・バンドの姿は見られた。(「僕の音楽人生から」から)
盛り場と川と音楽と。赤い灯、青い灯がまたたく道頓堀を包んだ音楽のすべてがジャズだったわけではないのだろうが、青年、服部良一の目に映じた歓楽の町・道頓堀はまさしくジャズの世界そのものだったに違いない。
当時のことを懐かしんだ服部は戦後、笠置シヅ子を伴って「御蕎麦処 今井」を訪れ、「楽器店のマスターを偲んで」のサインまで残した。
三田純市によれば、今井楽器店も1932年(昭和7)ごろからレコードの宣伝のため、流行歌をスピーカーで流し、店の前にその歌詞を置いた。すると、ニキビ面の丁稚たちを含む人垣がたちまちでき、流れる歌にあわせて「東京音頭」や「国境の町」 「赤城の子守唄」などに声を張り上げたという。
芝居町の西洋楽器店は、時代の寵児でもあった。
<筆者の独り言>
この稿を書いていて、道頓堀の西洋楽器店「今井楽器店」は大阪が最も繁栄した時代の落とし子といえるような気がしてきました。落ち目の芝居小屋に替わってその町に生まれたカフェ、キャバレーなど、新しい波に揺さぶられて、なくてはならない存在にのし上がったからです。
大阪が成長の軌道にのり、東京を抜いて日本一の巨大都市「大大阪」と呼ばれたのが、1925年(大正14)。人口は日本で最高の211万人を数え、その中心をなす歓楽街、道頓堀が人で埋め尽くされる現象がこのころから現出しました。
このころ、大阪朝日新聞(現朝日新聞)は画家、岡本太郎の父、一平に「大大阪君似顔の図」と題したイラストを15回の連載で描かせています。このイラストで道頓堀は「大阪君の顔の鼻と唇をつなぐ線、鼻唇線」として描かれました。顔の中心であり、大阪の中心でもある位置づけといえるでしょう。ちなみに鼻は通天閣、口が築港、歯は大阪城の石垣でした。
総延長わずか500mの通りがこの時代に、最も繁華な街として人の記憶に刻み込まれたのは間違いありません。
そんな今井楽器店のイメージが、「道頓堀今井」の西側に法善寺横丁まで、南北に伸びる「浮世小路」で見ることができます。幅わずか1.5mもない、人がすれ違うのさえ難しい小路の壁面に、楽器店当時の店名が掲げられ、その下にサキソホン。さらにその奥には今井が「稲竹」という名の芝居茶屋ころのたたずまいを再現した部分も。延長わずか10㍍の小路には、古き良き大正、昭和ロマンがあふれています。
服部良一さんがまだ<いづもや>の少年音楽隊にいてはった時分、たしか35円でフルートを売ったことがあったなァ。
コロンビアの外国盤を置くようになったのは大正9年ごろやったと思うけど、そのラベルに書いてあるジャズバンドという意味が分からなんで、新聞記者の人に訊ねたことがあったけど、その人も知らなんだ。
というて、道頓堀のことや。花柳界のサービスも忘れたらあかん。そこで東京の武蔵屋から、江戸のおもちゃを仕入れて、これも並べた。江戸のおもちゃ、いうのは今でも仲見世いづ勘あたりで売っとるやろ。それに、いたずら玩具。ガラスの氷やとか火のつかん煙草、びっくり箱やカイカイ薬~~こんなんも置いたなァ。ところが、これが意外にうけて、夜中に、お客と芸者がタクシー乗り付けて買いに来たりしたもんや。
こんな玩具を東京から見つけて来てくれたのが、延若さんの番頭やった馬淵万次郎、あんたとこのお祖父さんや。
若き楽器店主で「今井」の5代目、今井寛三が、三田純市の質問に応じて答えた当時の思い出を、三田が小説「道頓堀 川・橋・芝居」の中でこんな風に書いている。
馬淵万次郎は、三田の祖母であり、芝居茶屋「稲竹」のお茶子頭だった野村照が再婚した人物である。野村照が「稲竹」を譲り受け、「稲照」を開業した際に、それを下支えした人物でもある。
カイカイ薬とは、体につけるとその部分の皮膚がかゆくなるという、ちょっと変わったいたずら玩具だ。馬淵は寛三の父、三之助から芝居茶屋廃業の話を聞き、照への譲渡話を画策する一方で三之助と寛三の頼みの多くを聞きいれ、様々なお返しをした。カイカイ薬などはそのさえたるものだったに違いない。
最も、今井楽器店が開店当初におもちゃ屋を併設したのは、寛三の言う「花柳界へのサービス」だけではなかった。
「あれは、祖父と父のリスク回避策だったと思う」というのは、寛三の次男、
徳三である。商売替えの方向が楽器店となると、果たしてこれがものになるものなのかどうか。三之助と寛三親子にとって、「芝居茶屋に未来はない」との思いで一致はしても、「楽器店で食えるのか」は未知数である。楽器だけで商売するより、当時、花柳界の粋な遊び道具だった「大人の玩具」の売れ筋商品を並べて売ればよい。そんな二人の思惑が玩具の陳列に反映された、と徳三は見るのだ。
楽器店は、大方の予想に反して大成功だった。
寛三の「時代の読み」が、ズバリ当たったのである。そして皮肉にも、予期せぬ関東大震災の発生と第一次世界大戦がもたらした好景気がその後押しをしたのだった。
西欧文化の潮流が、明治末期から日本を、東京を、そして大阪を埋め始めた。その中で、道頓堀は芝居の町から映画の町に変わっていく。1907年(明治40)、大阪最初の映画常設館「電気館」「第一文明館」が千日前にオープン。10年(同43)には「角丸の芝居」から改称した「朝日座」が、映画上映中心の劇場に転向した。道頓堀で最初の動きだった。23年(大正12)5月には、日本初の鉄骨鉄筋コンクリート建ての洋画封切館「松竹座」が開館した。
映画音楽は多くが西洋音楽である。新しいリズムが、ジャズが銀幕に流れ、そして、くちずさまれていく。
もう一つは、カフェ、キャバレー、ダンスホールが歓楽街に進出し始めたことである。
09年(同42)、浪花座の東隣にカフェ・パウリスタが開館した。ブラジル政府がコーヒー宣伝のため出店。表のガラスの陳列棚に缶入りコーヒーや瓶入りシロップが飾られたエキゾチックな店である。もちろん、店内に流れるのは洋楽だ。
27年(昭和2)3月、中座と今井楽器店の間に「南地赤玉」が開店した。開店のチラシ広告には黒人のジャズバンドが登場した。10月には道頓堀川に面してキャバレー「道頓堀赤玉」も。こちらの開店チラシには「ジャズバンド毎日演奏」の文字が躍った。
そして、モボ、モガが熱狂したダンスブームの到来が洋楽と西洋楽器の需要を大きく伸ばしていくのである。
服部良一が「いづもや少年音楽隊」に入隊した、その入隊式の日に関東大震災が起きた。23年(大正12)9月1日。10万人近くが死亡、44万余戸が焼失、東京は壊滅状態に陥った。大震災は関東一円の文化施設と娯楽施設を破壊しつくした。職場を失ったミュージシャンが、大挙して大阪へ流れ込む。これら関東勢の失業楽士救済に加え、新しい波に乗った商売が儲かるところから、道頓堀周辺の食堂やカフェがこぞってバンドを入れたのである。そんな動きにからむ西洋楽器の需要が今井楽器店に集中する形になった。
もちろん、第一次世界大戦がもたらした好景気と、大阪が東京を抜いて日本一の巨大都市「大大阪」になったことも見逃せない。
洋楽と、それを支える西洋楽器の需要が三之助や寛三の予想をはるかに超えてのび、売れに売れまくったのだった。
寛三はその意味で時代を怜悧(れいり)に見ていた。また、それ以上にアイデアマンでもあった。
「父はなんしか粋なお人でして、新しいものが好きでした。ある時、お店の前にマネキンガールと称して、きれいな女の人を飾り窓に配したんです。道頓堀で初めてのことでした。たちまち黒山の人だかりになって、道頓堀が通行できなくなったんです。即刻、南警察からお目玉をくらって禁止、なんてこともありました」
寛三のアイデアマンぶりが、徳三の語り口ににじみ出ている。
今井楽器店の経営が軌道に乗り、再婚した寛三とマチ子との間に長女、宏子が誕生した28年(昭和3)、レコード「道頓堀行進曲」(日比繁次郎作詞、塩尻精八作曲)が世に出た。大阪、京都、神戸のの各松竹座で、幕間に上演された同名の寸劇の主題歌である。
道頓堀周辺のカフェーで一斉に歌われ、主演女優の岡田嘉子は芝居がはねると、あちこちのカフェーに特別出演して歌い、時には客との大合唱にも興じた。ともかく、どこでも誰もが口ずさむほどの大流行だった。そしてそれは、道頓堀が全国に知られるきっかけをも作った。
赤い灯青い灯 道頓堀の
川面にあつまる恋の灯に
何でカフェーが忘らりょか
「赤い灯青い灯」の詞も、今に語り継がれる流行語だった。それは、道頓堀の代名詞にもなった。
そして翌年には「テナモンヤないかないか道頓堀よ」の歌詞が一世を風靡する。「浪花小唄」(時雨音羽作詞、佐々紅華作曲)の大流行である。大大阪の勢いと相まって、道頓堀は日本一の歓楽街となっていく。
そんな中で32年(昭和7)10月28日、今井の6代目、今井清三が誕生した。
大阪が最も華やいだ時期にあたる22年(大正11)4月9日、島之内警察署が道頓堀の角座前と戎橋南詰め、千日前の楽天地前の3か所で、午前8時-午後8時の12時間の通行量を調べた。日曜日のこの日、人出が最も多かったのは角座前だった。実に35万7590人の男女が行き交ったという。
<筆者の独り言>
この連載も2年目に入りました。
月2回のペースで連載していますので、これで20回を数えます。昭和30年代の6代目の時代、7代目の修業時代、そしてインバウンド(訪日外国人)がかっ歩する最近の道頓堀の描写――と、連載はまだまだ続きます。ご愛読をよろしくお願いします。
さて、道頓堀に「今井楽器店」が誕生して間もない1919、20年(大正8、9)ごろに世に出た雑誌に「道頓堀」(天下茶屋・道頓堀雑誌社発行)というのがあります。紙質はあまりよくないA4サイズのものなのですが、面白いのは本文の上に道頓堀と宗右衛門町の町並みのイラストが絵巻物のように続いているのです。
道頓堀だけで12ページを費やし、戎橋付近を起点に通りの南側を浪花座、中座、角座と東に向かい、堺筋までたどると今度は通りの北側、道頓堀川の浜側の家並みを描いて戎橋に戻ってくるのです。
筆者が誰か、いまだに分かっていないのですが、劇場では中村鴈次郎ののぼりから防火壁まで。それぞれの店舗の看板、暖簾を活写し、通行人の様子から電信柱、ゴミ箱までを写し取っています。「芝居小屋にタコ旗、通行人」といった趣で描かれることの多い道頓堀ですが、この雑誌のイラストは、「大大阪」時代の通りの両側を精緻に写し取っているのが特徴です。
そんな中に「今井楽器店」もきっちり描かれています。瀟洒(しょうしゃ)なモルタル3階建て。最上部に「楽器店」と表示され、1階上部の中央に「今井」の看板が掲げられています。東隣は俳優飴を売っていたという「長栄堂」、その隣が「中座」。西隣に法善寺に抜ける道、今の「浮世小路」、料理店「福田」、甘栗を売る「来々軒」と続いています。
それにしても驚くのは描かれた雑踏のすごさです。劇場の前、そして「今井楽器店」前の人だかりは、インバウンドがかっ歩する最近の道頓堀をも彷彿(ほうふつ)とさせます。
その時代から、否、それ以前の江戸の昔からずっとにぎわいを見せているのがこの町・道頓堀なんですね。
連載をスタートさせてすぐのころから紹介している「道頓堀今井」の季節そばですが、今月は「寿そば」です。
その名の通り、新春をことほぐおそばといったらいいのでしょう。ふんわりと舌にとろけるエビしんじょうに鴨ロース、焼き目のついたお餅、20センチほどの紅白の水引にウグイス菜、そして、松葉をかたどった柚子。メニューに書かれた「七福神がダンスをしているおそば」の表現がぴったりの一品で、味はもちろん「今井」ならではのものでした。
点心もまた正月そのもの。チシャの軸で作った門松にウニで包んだカズノコ、梅とてまりをあしらった麩、マツカサを模したクワイ、大根の羽子板の中央にに羽根をイメージしたイクラ、エビ煮に黒豆と、まるで豪華なおせちが勢ぞろい、といった感じでした。
デザートは4種類から選ぶのですが、今回は「りんごのワイン煮」をいただきました。舌に溶けた瞬間、抑えた甘味が口いっぱいに広がりました。